袁枚
1716-1797, 清朝中国の文人、詩人
袁 枚(えん ばい、康熙55年3月2日(1716年3月25日) - 嘉慶2年11月17日(1798年1月3日)[1])は、中国清代の文人・詩人。食通として名高い。字は子才。号は簡斎、別の号として随園老人という。杭州府銭塘県の出身。本貫は寧波府慈谿県。
袁枚 | |
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羅聘画、袁枚像、京都国立博物館所蔵。 | |
プロフィール | |
出生: | 1716年3月25日 |
死去: | 1798年1月3日 |
出身地: | 杭州府銭塘県 |
職業: | 文人・詩人 |
各種表記 | |
各種表記(本名) | |
繁体字: | 袁枚 |
簡体字: | 袁枚 |
拼音: | Yuán Méi |
ラテン字: | Yüan2 Mei2 |
注音二式: | Yuán Méi |
和名表記: | えん ばい |
発音転記: | ユエン・メイ |
英語名: | Yuan Mei |
略歴
編集12歳で生員に合格し1738年に挙人となり、翌年には24歳で進士に及第した。しばらく翰林院に在籍してから公務につくが、若さに不安を持たれたせいか妬みのためか、地方しか任されず、溧水県令に出されてから以後は江浦・沭陽など、地方を転々する。田舎まわりの生活に嫌気がさした彼は38歳の時に官を辞し[2]、そののちは生涯職に就かなかった[3]。
若くして引退した後は、江寧につとめていたとき買った「随園」と名づけた庭園のある邸宅に隠遁自適し、読書や執筆を事とし、また美食に耽溺して日を送った。高潔にして風雅な詩風が名声を得たことで、入門を望む者や詩文の執筆を依頼する者が続出し、収入には事欠かなかったという。芸術全般に一家言のある人物であるが、その本領とするところは詩文であり、詩人の性情を自由に発露することを重視すべきだという、「性霊説」といわれる袁枚の詩論は『随園詩話』に論述されている。
婦女文学を提唱して女弟子を多く集めて詩を教え『女弟子詩選』という本まで公刊したことは、男女の礼法を乱す者として糾弾され、放蕩の詩人とさえいわれた[4]。またその他の著作では、食通の彼が追求した当時の中華料理の料理法、各地の食材、料理について詳細に記録したレシピ集の『随園食単』、怪異談を集めた『子不語』が著名である[5]。
日本語文献
編集- 著書
- 青木正児訳註 『随園食単』、岩波書店〈岩波文庫 青 262-1〉、1980年。『青木正児全集 第8巻』(春秋社、1971年)所収「随園食単」を文庫化。ISBN 978-4003326213
- 前野直彬訳 『閲微草堂筆記(抄) 子不語(抄) 他』、平凡社〈中国古典文学大系〉42、1971年。ISBN 978-4582312423
- 黒田真美子 編著・福田素子 著・竹田晃 編 『閲微草堂筆記・子不語・続子不語』、明治書院〈中国古典小説選〉11、2008年。ISBN 9784625664106
- 手代木公助 訳注 『子不語』全5巻、平凡社〈東洋文庫〉、2009年-2010年。日本初全訳。1)ISBN 9784582807882 2)ISBN 9784582807905 3)ISBN 9784582807929 4)ISBN 9784582807943 5)ISBN 9784582807950
- 評伝
- アーサー・ウェイリー/加島祥造・古田島洋介訳 『十八世紀中国の詩人』 平凡社〈東洋文庫〉、1999年、ISBN 4582806503
- 平川祐弘 『袁枚 「日曜日の世紀」の一詩人』 沖積舎、2004年、ISBN 4806047031
注釈
編集- ^ 袁枚経学観及其疑経思想探析 中国人民大学清史研究所 2018年7月10日閲覧。
- ^ 1971年刊の『閲微草堂筆記 子不語』平凡社 では、24歳で進士、38歳で官を辞すとあるが、2008年刊の『中国古典小説選11 閲微草堂筆記 子不語・続子不語(清代Ⅲ)』明治書院 では、23歳で進士、32歳で官を辞すとある。
- ^ 『清史稿』巻四百八十五 列傳二百七十二 文苑二 10「袁枚 程晋芳 張問陶」の条。 中国語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります:清史稿/卷485#袁枚〈程晉芳_張問陶〉
- ^ 蕭燕婉著 『清代の女性詩人たち 袁枚の女弟子点描』中国書店、2007年。
- ^ 中野清訳 『孔子の話さなかったこと』(情況出版、1998年)あとがき。