蠣崎広武
蠣崎 広武(かきざき ひろたけ)は、江戸時代前期から中期にかけての武士。松前藩の家老。松前藩守広系蠣崎家5代。
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 延宝7年(1679年) |
死没 | 享保元年7月8日(1716年8月24日) |
改名 | 武千代(幼名)→広武 |
別名 | 主殿 |
主君 | 松前矩広 |
藩 | 蝦夷松前藩 |
氏族 | 蠣崎氏 |
父母 | 蠣崎広明 |
兄弟 | 広武、卯登 |
妻 | 松前広時娘 |
子 | 広栄 |
略歴
編集4代・蠣崎広明の子として誕生。
延宝9年(1681年)に父が死去したため、跡を継いだ。宝永5年(1707年)に家老となる。清廉潔白な人物と伝わり、藩主・松前矩広の補佐をよく務め、アイヌにも雑穀栽培を教えて奨励するなどした。享保元年(1716年)7月8日に変死した。享年38。跡を子・広栄が継いだ。
松前藩では広武の死の前年(正徳5年(1715年))に矩広の継嗣である富広が早世して継嗣問題が発生しており、また広武自身の著である『官庫日記』の正徳6年(1716年)3月から5月半ばの記載が欠けており、継嗣問題に巻き込まれた自殺との説がある。