藤原重家 (刑部卿)
平安時代後期の公卿・歌人。藤原北家末茂流。従三位・大宰大弐。六条藤家4代。子に成円(顕範、頭範、興福寺)、仁快(延暦寺、刑部卿、大僧都)
藤原 重家(ふじわら の しげいえ)は、平安時代後期の公卿・歌人。藤原北家末茂流、左京大夫・藤原顕輔の子。官位は従三位・大宰大弐。初名は光輔。六条を号す。六条藤家4代。
時代 | 平安時代後期 |
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生誕 | 大治3年(1128年) |
死没 | 治承4年12月21日[1][2](1181年1月8日) |
改名 | 光輔(初名)→重家→蓮寂または蓮家(法名) |
別名 | 六条 |
官位 | 従三位、大宰大弐 |
主君 | 後白河天皇→二条天皇→六条天皇→高倉天皇 |
氏族 | 藤原北家末茂流六条藤家 |
父母 | 父:藤原顕輔、母:家女房 |
兄弟 |
顕賢、清輔、頼輔、重家、季経、顕成、親輔、長覚、近衛基実室、九条兼実室 養兄弟:顕昭 |
妻 | 藤原家成の娘 |
子 | 経家、顕家、有家、保季、資家、成円、仁快、中山兼宗室 |
経歴
編集父・顕輔は自らと年齢の近い長男・清輔とは微妙な関係にあり、その分重家らに愛情深かったという。周防国・筑前国などの国司を歴任するが、二条天皇側近と見なされた事から、応保2年(1162年)に後白河法皇の意向で解官される。その後復権し、仁安3年(1168年)に昇殿を許され、嘉応2年(1170年)正月に従三位に昇進し公卿に列す。承安元年(1171年)に大宰大弐。安元2年(1176年)6月17日[1][3]に出家して退隠。法名は蓮寂または蓮家。
和歌・漢詩・管弦に秀でた才人として名声が高く、特に和歌の方面では、兄・清輔より人麿影供を相伝され六条藤家を継ぐ。数々の歌合に出詠し、九条兼実家百首では判者を務めた。『千載和歌集』(3首)以下の勅撰和歌集に29首が入集[4]。家集に『大宰大弐重家集』がある。