滋野井実国
平安時代末期の公卿・歌人。三条公教の次男。母は半物阿古(家女房)。正二位・権大納言。滋野井家の祖・初代
(藤原実国から転送)
滋野井 実国(しげのい さねくに)は、平安時代末期の公卿・歌人。藤原実国とも。内大臣・三条公教の次男。官位は正二位・権大納言。三条大納言と号す。滋野井家の祖。
時代 | 平安時代後期 |
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生誕 | 保延6年(1140年) |
死没 | 寿永2年正月2日(1183年1月28日) |
別名 | 實國、藤原実国、三条大納言 |
官位 | 正二位、権大納言 |
主君 | 近衛天皇→後白河天皇→二条天皇→六条天皇→高倉天皇→安徳天皇 |
氏族 | 滋野井家 |
父母 | 父:三条公教、母:家女房 |
兄弟 | 三条実綱、実国、琮子、三条実房、実円、公祐、松殿基房正室、松殿基房室、藤原俊憲室 |
妻 | 藤原家成の娘、源雅綱の娘 |
子 |
公時、藤原公清、賢忍、公全、粟田口忠良室 養子:藤原公佐 |
経歴
編集久安3年(1147年)従五位下に叙爵。仁平2年(1152年)従五位上・左兵衛佐に叙任。同年中に正五位下に陞叙。
久寿2年(1155年)右近衛少将に任ぜられ、保元年間に従四位下から正四位下まで進む。右近衛中将、蔵人頭を歴任し、永暦元年(1160年)但馬権守を経て参議に任ぜられ公卿に列す。播磨権守を経て、応保2年(1162年)従三位、長寛3年(1165年)権中納言に任ぜられる。左兵衛督、左衛門督などを歴任し、正二位・権大納言に至る。
寿永元年(1182年)末の母の死を追うように寿永2年(1183年)正月2日に薨去した。享年44。笛、神楽に秀で高倉天皇の笛の師でもある。また歌人として永万2年(1166年)中宮亮重家朝臣家歌合、嘉応2年(1170年)の建春門院北面歌合、治承2年(1178年)別雷社歌合などに出詠。嘉応2年(1170年)自邸で歌合を行った。家集に『実国集』がある。また、『千載和歌集』に入首している。
官歴
編集- 久安3年(1147年)正月5日:従五位下(統子内親王御給)[1]
- 仁平2年(1152年)正月3日:従五位上(朝覲行幸。章子内親王) 正月24日:左兵衛佐 3月8日:正五位下(院別当公教卿譲)
- 久寿2年(1155年)4月14日:右近衛少将
- 保元元年(1156年)閏9月14日:従四位下(府)
- 保元2年(1157年)10月22日:従四位上(造宮臨時)
- 保元3年(1158年)正月6日:正四位下(臨時) 正月27日:右近衛中将
- 保元4年(1159年)4月6日:蔵人頭
- 永暦元年(1160年)正月21日:但馬権守 4月2日:参議
- 永暦2年(1161年)正月23日:播磨権守
- 応保2年(1162年)2月23日:従三位(日吉行幸行事)
- 長寛3年(1165年)正月23日:権中納言
- 永万2年/仁安元年(1166年)7月15日:左兵衛督 11月14日:正三位(臨時)
- 仁安2年(1167年)2月11日:右衛門督
- 仁安3年(1168年)7月3日:左衛門督 8月10日:中納言
- 嘉応2年12月30日(1171年2月6日):権大納言
- 嘉応3年(1171年)正月2日:帯剣
- 承安2年(1172年)3月29日:従二位(日吉行幸行事賞)
- 承安5年(1175年)正月4日:正二位(天皇行幸上皇御所御笛師賞。御遊座直被仰之)
- 治承4年(1180年)2月21日:院別当