董朝
生涯
編集太平3年(258年)9月、呉の皇帝孫亮が廃位され、代わって孫休が立てられることになった。当時、中書郎の官にあった董朝は、孫綝の命により、孫休を迎え入れる使者の一人となった。当惑する孫休に対し、董朝らは奉迎の意図について詳しく説明。説得は翌日まで続き、ついに孫休の腰を上げさせた。10月、孫休を迎え入れた功により、郷侯に封ぜられた[1]。
孫皓の時代に当たる建衡元年(269年)、中書令の官にあった董朝は、危篤に陥った左丞相陸凱への使者として遣わされ、孫皓への遺言を聞き取った。二十箇条にもなる孫皓への諫言状を陸凱から託されたとも言われる[2]。
天冊2年(276年)8月には司徒の官を兼ねていた。この時、呉興郡陽羡山にある長さ十丈あまりの石の各所に、瑞祥が現れているとの報告が朝廷に届いた。そこで董朝はこの地へ遣わされ、陽羡山を国山とする封禅の儀式を行った[3]。
脚注
編集- ^ 陳寿撰、裴松之注『三国志』呉書 孫休伝。s:zh:三國志/卷48#孫休
- ^ 『三国志』呉書 陸凱伝より。撰者の陳寿は、諫言状が実際に孫皓に上表されたかは疑わしいとしながらも、それをそのまま同書に収録している。s:zh:三國志/卷61#陸凱
- ^ 『三国志』呉書 孫皓伝。s:zh:三國志/卷48#孫皓