粟田丸(あわたまる)は、かつて日本郵船が所有し運航していた貨物船太平洋戦争中は特設巡洋艦特設運送船として運用された。

粟田丸
基本情報
船種 貨物船
クラス A型貨物船
船籍 大日本帝国の旗 大日本帝国
所有者 日本郵船
運用者 日本郵船
 大日本帝国海軍
建造所 三菱重工業長崎造船所
母港 東京港/東京都
姉妹船 A型貨物船4隻
信号符字 JWVL
IMO番号 44231(※船舶番号)
建造期間 297日
就航期間 1,035日
経歴
起工 1937年3月2日[1]
進水 1937年8月5日[1]
竣工 1937年12月23日[1]
除籍 1944年1月5日
最後 1943年10月22日被雷沈没
要目
総トン数 7,397トン(1942年)[2]
純トン数 4,328トン
載貨重量 9,567 トン[2]
排水量 不明
全長 147.50m[3]
垂線間長 141.02m[2]
型幅 19.0m[2]
型深さ 10,50m[2]
高さ 27m(水面からマスト最上端まで)
9m(水面から船橋最上端まで)
13m(水面から煙突最上端まで)
喫水 3.73m[2]
満載喫水 8.39m[2]
主機関 三菱MS型ディーゼル機関 1基[2]
推進器 1軸[2]
最大出力 9,711BHP[2]
定格出力 8,000BHP[2]
最大速力 19.3ノット[2]
航海速力 15.0ノット[2]
航続距離 15ノットで36,000海里
乗組員 61名[2]
1941年8月16日徴用。
高さは米海軍識別表[4]より(フィート表記)
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粟田丸
基本情報
艦種 特設巡洋艦
特設運送船
艦歴
就役 1941年9月5日(海軍籍に編入時)
第五艦隊第22戦隊/呉鎮守府所管
要目
兵装 特設運送艦時
十一年式12cm単装砲2門
九三式13mm単装機銃2基4門
特設巡洋艦時(1943年7月)[3]
三年式14cm砲4門
九六式25mm連装対空機銃2基4門(当初未装備)
九六式13mm4連装機銃1基4門(当初未装備)
九三式13mm機銃連装2基4門
同単装4門(当初未装備)
九二式7.7mm機銃2挺(当初未装備)
六年式53cm連装水上発射管1基2門
(53cm)六年式魚雷6本
九五式改二爆雷12個
装甲 なし
搭載機 零式水上偵察機2機(当初未装備)
呉式2号5型射出機1基(当初未装備)
レーダー 21号電探1基(当初未装備)[3]
ソナー 仮称吊下式一型水中聴音機1基(当初未装備)[3]
徴用に際し変更された要目のみ表記
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概要

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粟田丸は日本郵船の欧州航路改善のために投入されたA型貨物船の四番船として、三菱長崎造船所1937年(昭和12年)3月2日に起工し8月5日に進水、12月23日に竣工した。往航はパナマ運河経由でハンブルクに至り、帰途はスエズ運河を通過して日本に戻る東航世界一周線に就航するが、1939年(昭和14年)の第二次世界大戦勃発で優秀船は保護のため撤退し、1940年(昭和15年)には航路も休止となった[5][6]。アメリカ方面に配置換えとなったが、1941年(昭和16年)8月に事実上休航して遠洋航路は閉じられることとなった[5][7]

昭和16年8月16日、粟田丸は日本海軍に徴傭され、次いで9月5日付で特設巡洋艦として入籍、呉鎮守府籍となる[8]。8月23日から10月5日まで三菱神戸造船所で特設巡洋艦としての艤装工事を受けた[8]。就役後は第二十二戦隊(堀内茂礼少将)に編入され、特設監視艇隊の母艦的存在として釧路および横須賀を根拠地として行動する。1942年(昭和17年)4月18日早朝、粟田丸は第二監視艇隊の支援で隊の西方に位置していた[9]。このとき、特設監視艇第二十三日東丸(日東漁業、90トン)がアメリカ第16任務部隊第18任務部隊を発見して打電したが、間もなく軽巡洋艦ナッシュビルの砲撃で沈没した。粟田丸は第二十三日東丸のちょうど西方におり、第二十三日東丸の沈没から間を置かず最初の空襲を受けたが、この時は被害はなかった[9]。しばらくして粟田丸は再び空襲を受け、至近弾1発を受けて軽微な損害を受けた[10]。4月19日、敵機の攻撃を受けて航行不能となっていた監視艇「長久丸」の生存者を救助した[11]。6月にはキスカ島攻略作戦に従事[12][13]1943年(昭和18年)に入ると、キスカ島への輸送作戦に参加する[14]。3月には特設水上機母艦君川丸川崎汽船、6,863トン)などとともにアッツ島への輸送任務にもつき、3月10日にアッツ島に到着して任務を成功させた[15][16]。7月のキスカ島撤退作戦には応急収容隊として参加[17]。このように、開戦以降の粟田丸は専ら北方海域の警戒にあたって他の海域で行動することはなかった。

9月、粟田丸は丁一号輸送部隊第三輸送隊として、ポンペイ島への輸送任務につくこととなった[18][19]。9月18日に宇品を出撃し、9月26日にポンペイ島に到着[20]。ポンペイ島への輸送任務を終えてトラック諸島に到着した10月1日付で、粟田丸は特設運送船に類別変更されるが[8]、艤装転換工事は受けないままであった。引き続き、第十七師団酒井康中将)をラバウルへ輸送することとなり、丁四号輸送部隊が編成され、粟田丸は特設運送船日枝丸(日本郵船、11,621トン)とともに第三輸送隊に名を連ねる[21]。粟田丸は1,100名の人員と3,700立方メートルの武器、弾薬、糧食などを搭載し、10月20日午後に上海を出撃する[22]。しかし、第三輸送隊は翌10月21日午後にはアメリカ潜水艦グレイバックが探知するところとなった[23]。グレイバックは9,000ヤードまで接近し、ウルフパックを構成していたシャードセロに通報したのち、浮上して速力を上げ第三輸送隊の前方への進出を図った[23]。10月22日3時47分、北緯26度49分 東経125度03分 / 北緯26.817度 東経125.050度 / 26.817; 125.050の地点でグレイバックは魚雷を6本発射し、4本が粟田丸に命中[24][25]。命中した4本のうち1本は火薬庫に命中し、粟田丸は大爆発を起こして轟沈した[26]。護衛の駆逐艦の舞風および野分が救助にあたったが、生存者は指揮官の竹内平七大佐以下乗員88名、輸送中の陸軍兵士76名を数えるのみであり、残りの乗員223名と陸軍兵士1,087名は戦死した[25][26]。粟田丸は1944年(昭和19年)1月5日に除籍および解傭された[8]

艦長

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艦長
  • 牧兼幸 大佐:1941年9月5日[27] - 1943年3月4日[28]
  • 竹内平七 大佐:1943年3月4日[28] - 1943年10月1日
指揮官
  • 竹内平七 大佐:1943年10月1日 -

同型船

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A型貨物船

脚注

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注釈

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出典

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参考文献

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  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • Ref.C08050083200『昭和十八年版 日本汽船名簿 内地 朝鮮 台湾 関東州 其一』、30頁。 
    • Ref.C08030069100『自昭和十六年十二月一日至昭和十六年十二月三十一日 第二十二戦隊戦時日誌 作戦及一般ノ部』。 
    • Ref.C08030019100『自昭和十七年六月一日至昭和十七年六月三十日 第五艦隊戦時日誌』、1-8頁。 
    • Ref.C08030072100『自昭和十八年七月一日至昭和十八年七月三十一日 第二十二戦隊戦時日誌』。 
    • Ref.C08030101200『自昭和十八年九月一日至昭和十八年九月三十日 第二水雷戦隊戦時日誌』。 
    • Ref.C08030052500『丁四号輸送部隊任務報告』。 
  • (issuu) SS-208, USS GRAYBACK. Historic Naval Ships Association. https://issuu.com/hnsa/docs/ss-208_grayback 
  • 三菱造船(編)『創業百年の長崎造船所』三菱造船、1957年。 
  • 財団法人海上労働協会(編)『復刻版 日本商船隊戦時遭難史』財団法人海上労働協会/成山堂書店、2007年(原著1962年)。ISBN 978-4-425-30336-6 
  • 日本郵船戦時船史編纂委員会『日本郵船戦時船史』 上、日本郵船、1971年。 
  • 山高五郎『図説 日の丸船隊史話(図説日本海事史話叢書4)』至誠堂、1981年。 
  • 木津重俊(編)『世界の艦船別冊 日本郵船船舶100年史』海人社、1984年。ISBN 4-905551-19-6 
  • 財団法人日本経営史研究所(編)『日本郵船株式会社百年史』日本郵船、1988年。 
  • 木俣滋郎『日本軽巡戦史』図書出版社、1989年。 
  • 柴田武彦、原勝洋『日米全調査 ドーリットル空襲秘録』アリアドネ企画、2003年。ISBN 4-384-03180-7 
  • 林寛司(作表)、戦前船舶研究会(資料提供)「特設艦船原簿/日本海軍徴用船舶原簿」『戦前船舶』第104号、戦前船舶研究会、2004年。 

外部リンク

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座標: 北緯26度49分 東経125度03分 / 北緯26.817度 東経125.050度 / 26.817; 125.050