籾摺騒動
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概要
編集寛延4年(1751年)に宇都宮城主の松平忠祇が財政難のため「上納米は籾1升6合摺の割合で納入すべし」と百姓に命令した。それに対し百姓たちは「代々の領主は年貢は5合摺だった」との嘆願書を出した。さらに、城に出入りする商人数名にも「役人に頼んでほしい」と繰り返し訴えるが効果がなかった。
宝暦3年(1753年)9月13日に領内の百姓約45,000人が八幡山に集結。打ちこわしを開始した。城の役人が非常召集され、大目付の松野源太夫が百姓たちに事情を聞き、場を収めた。しかし翌14日も暴動が起きる。15日に平定された。16日に隠し目付により指導者4人が捕らえられ拷問を受けた。白状したことにより多数の首謀者が捕らえられた。だが、御田長島村(現・宇都宮市御田長島町)の庄屋である鈴木源之丞だけが捕まえられなかった。9月下旬に小頭たちが源之丞を発見したが、抵抗され撤退する。源之丞は危険を感じたため妻のキミを離縁しようとしたが、「運命をともにする」と言われた。翌日の明け方に寝込みを襲われたが抵抗はしなかった。この後に百姓の願いは認められた。しかし10月19日に鈴木源之丞と水沼亀右衛門(上平出村庄屋後見)と増淵六平(小左衛門〈今泉〉新田庄屋)が市中引き回し・打ち首にされ、篠崎太郎左衛門(羽牛田村)が水牢、山崎嘉七(御田村)が追放の刑に処せられた。
源之丞は法名を「義徳院宇領済源居士」と付けられ「喜国源之丞大明神」にまつられた。亀右衛門は平出雷電神社にまつられた。宇都宮市御田長島町に六角の大谷石が建っているが、何も記されていない。罪人の墓は建てることができなかったため、村人が藪の中に隠して建立した供養塔である。
宝暦7年(1757年)・明和元年(1764年)・明和3年(1766年)に宇都宮で大洪水が起き、人々に「源之丞洪水」と呼ばれた。
参考文献
編集- 『宇都宮郷土史 再編復刻版』 徳田浩淳 1996年 (非売品)