竹内季治
竹内 季治(たけのうち すえはる、永正15年(1518年) - 元亀2年9月18日(1571年10月6日))は、戦国時代の公家。大膳大夫・竹内秀治の長男。官位は正三位・大膳大夫。久我家諸大夫。
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 永正15年(1518年) |
死没 | 元亀2年9月18日(1571年10月6日) |
官位 | 正三位・大膳大夫 |
氏族 | 竹内家 |
父母 | 竹内秀治 |
兄弟 | 季治、秀勝[1] |
子 | 長治、水無瀬親具室 |
経歴
編集大永年間(1521年-1528年)に従五位下・近江守に叙任される。久我家諸大夫を務める一方で、天文8年(1539年)宮内少輔に任ぜられる。天文15年(1546年)足利義輝が第13代征夷大将軍になると、翌天文16年(1547年)秀治は従四位下に叙せられた。
天文18年(1549年)父の竹内秀治が没するが、天文20年(1551年)従四位上に叙せられ、父の後を継いで大膳大夫に任ぜられる。天文24年(1555年)正四位下に昇叙されると、弘治2年(1556年)父に続いて昇殿を許され、弘治3年(1557年)従三位に叙せられ竹内家として初めて公卿に列す。永禄3年(1560年)には将軍・足利義輝の執奏によりついに堂上家に加えられた。
永禄5年(1562年)正三位に至る。永禄8年(1565年)足利義輝が三好義継に滅ぼされたのち、永禄10年(1567年)5月19日に出家、法名は真滴を号した。元亀2年(1571年)季治は織田信長のことを「熟したイチジクの如く木より地上に落ちるだろう」と評したことから信長の逆鱗に触れ、同年9月18日に近江国永原(現在の滋賀県野洲市永原)で斬首された[2]。享年54。
官歴
編集『諸家伝』による。
- 大永年間:従五位下。近江守
- 天文7年(1538年) 9月14日:従五位上
- 天文8年(1539年) 3月22日:宮内少輔
- 天文12年(1543年) 8月8日:正五位下
- 天文16年(1547年) 11月19日:従四位下
- 天文18年(1549年) 5月13日:服解(父)
- 天文20年(1551年) 正月6日:従四位上。3月27日:大膳大夫
- 天文24年(1555年) 正月6日:正四位下
- 弘治2年(1556年) 11月11日:昇殿
- 弘治3年(1557年) 2月18日:従三位
- 永禄3年(1560年) 正月:依大樹執奏加堂上
- 永禄5年(1562年) 正月5日:正三位
- 永禄10年(1567年) 5月19日:出家
- 元亀2年(1571年) 9月18日:於近江国横死(依武命也)
系譜
編集『系図纂要』による。
- 父:竹内秀治
- 母:不詳
- 生母不詳の子女
- 男子:竹内長治(1536-1586)
- 女子:水無瀬親具室