秋元盛貞
秋元 盛貞(あきもと もりさだ)は、戦国時代の武将。櫛渕城主。
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 1560年8月27日(永禄3年8月6日) |
墓所 | 法泉寺 |
官位 | 和泉守 |
幕府 | 室町幕府 |
主君 | 三好之長→細川成之 |
妻 | 森忠明の娘 |
子 | 櫛渕盛之、櫛渕成公 |
生涯
編集金刺盛澄の子孫で信濃国の上諏訪(現在の長野県諏訪市)で城主であった繁野貞國の孫とされるが、承久の乱の後に那賀郡櫛渕村(現在の徳島県小松島市櫛渕町)の新補地頭として補任した秋本二郎兵衛尉の子孫という説もある[1]。
信濃国にある秋元の里を領地としていたが、武田信玄との戦いに敗れ、1502年(文亀2年)に阿波国を訪れ三好之長の支援を受け、之長の姪で板野郡の大谷城主・森忠明の娘を正室にし、細川家家臣となって那賀郡櫛渕村と三倉村を領地とした[2][3]。
1503年(文亀3年)、那賀郡の大野城主の裏切りのため、同年8月13日に討伐に出て9月5日に攻め落とした。その恩賞で、那賀郡のうち立江・古毛・荒田野・上大野・下大野の5村を領地に加え、旧領と併せて三千貫(6千石)となり、騎馬士150騎、徒士300人を抱え、櫛渕城と支城の奥条城を居城とし、苗字をも櫛渕と改め、櫛渕村に諏訪・八幡・杉尾・天満宮・額明神の5社などを建立[4]。現在は五社の丸と言い伝えられているが、額明神の社は無くなっている[5]。