神山閏次
日本の内務・農商務官僚
神山 閏次(かみやま じゅんじ、1870年11月7日(明治3年10月14日[1])- 1943年(昭和18年)3月8日[2])は、日本の内務・農商務官僚。官選群馬県知事、錦鶏間祗候。
経歴
編集熊本県出身。熊本藩士・神山譲の長男として生まれる[3]。第一高等学校を卒業。1895年(明治28年)帝国大学法科大学政治学科を卒業。同年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し県治局属となる[3][4]。
1896年(明治29年)5月、青森県参事官に就任。以後、司法大臣秘書官兼司法省参事官、衆議院書記官兼内務省参事官、農商務大臣秘書官兼衆議院書記官兼農商務省参事官、農商務省水産局長などを歴任[1]。
1908年(明治41年)8月、群馬県知事に就任。1910年(明治43年)に前橋市で関東東北の各府県が参加した共進会が開催された。1912年(明治45年)3月、知事を休職となる[3]。同年12月、鉄道院理事に就任し[1]、1913年(大正2年)3月17日に依願免本官となり退官した[5]。
その後、露領水産組合長、海外興業 (株) 社長を務めた[3]。1918年(大正7年)6月21日、錦鶏間祗候に任じられた[6]。墓所は多磨霊園。
栄典
編集著作
編集- 『小楼清風記』神山閏次、1937年。
- 訳書
- ステーリン著『彼得大帝の面影』警醒社、1904年。
親族
編集脚注
編集参考文献
編集- 人事興信所編『人事興信録 第5版』人事興信所、1918年。
- 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
- 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。