生駒万子
日本の江戸時代前期~中期の武士・俳人。加賀藩士生駒八郎右衛門(生駒勘右衛門家初代生駒直勝次男)長男。奥小姓・馬廻・普請奉行等を歴任。俳人としては談林派及び松尾芭蕉に師事
生駒 万子(いこま まんし、承応3年(1654年) - 享保4年4月27日(1719年6月14日))は、江戸時代前期から中期の俳人。加賀藩士。諱は重信、通称は伝吉、藤九郎、万兵衛。別号に此君庵、水国亭、水国庵、亀巣など。
生駒 万子 | |
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誕生 |
1654年??月??日 日本、加賀国金沢 |
死没 |
1719年4月27日 (旧暦) 日本、加賀国金沢 |
墓地 | 高巌寺(石川県金沢市) |
職業 | 俳人、加賀藩士 |
ジャンル | 俳諧 |
ウィキポータル 文学 |
経歴
編集承応3年(1654年)、生駒直勝の二男・生駒八郎右衛門の嫡男として金沢に生まれる[1][2][3]。
はじめ談林派に学んだという[4]。万子としての史料上の初見は[注釈 1]、貞享2年(1685年)の『稲筵』[5][6]。貞享4年(1687年)の江左尚白編『孤松』に小杉一笑らとともに入集[4]。
元禄2年(1689年)、松尾芭蕉の加賀来訪の際に入門[2][5]。山口素堂、谷木因とともに芭蕉の三友と言われた[1][5]。
立花北枝、秋の坊らと交遊し、秋の坊が《寒ければ山より下を飛ぶ雁に物うちになふ人ぞ恋しき》との歌を詠んで無心をすると、《寒ければ山より下を飛ぶ雁に物うちになふ人をこそやれ》と返歌して炭を贈るなど、経済面で俳友を助けたという[1][4]。越中井波の浪化とは姻戚であり親しく交わった[5][6]。また、各務支考の庇護者でもあった[2][6]。
年譜
編集代表句
編集- 酔た手で若菜摘むべき雪間哉
- 炉塞の空の景色や青だゝみ
- 岩踏んで一目一目のさくら哉
- 思へども雑の哥書く扇かな
- 一とせや餅つく臼のわすれ水
- 秋草に何のゆかりぞ黒き蝶
- のむ程に三日月かゝる桜哉
- 夏野来て思ひもかけず川に橋
注釈
編集出典
編集参考文献
編集- 日置謙編『加能郷土辞彙』金沢文化協会、1942年
- 伊地知鉄男ほか編『俳諧大辞典』明治書院、1957年
- 石川県『石川県史 第3編』石川県図書館協会、1974年
- 尾形仂ほか編『総合芭蕉事典』雄山閣、1982年 ISBN 4639001649
- 家臣人名事典編纂委員会編『三百藩家臣人名事典 第三巻』新人物往来社、1988年 ISBN 4404015038
- 市古貞次ほか編『国書人名辞典 第四巻』岩波書店、1998年 ISBN 4000800841