敦平親王
平安時代中期の皇族。三条天皇の三男。二品兵部卿
敦平親王(あつひらしんのう)は、三条天皇の第三皇子。官位は二品・式部卿。
敦平親王 | |
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時代 | 平安時代中期 |
生誕 | 長保元年(999年) |
薨去 | 永承4年3月18日(1049年4月22日) |
官位 | 二品式部卿 |
父母 | 父:三条天皇、母:藤原娍子 |
兄弟 | 敦明親王(小一条院)、敦儀親王、敦平親王、当子内親王、禔子内親王、性信入道親王、禎子内親王 |
妻 | 藤原兼隆長女、源則理女 |
子 |
敬子女王 養子:敦輔王 |
経歴
編集寛弘8年(1011年)父の三条天皇の即位に伴い親王となる[1]。長和2年(1013年)3月、兄敦儀親王と同時に元服し、三品に叙せられる。このとき加冠を右大臣藤原顕光が務め、理髪を蔵人頭藤原朝経が務めた。同年6月兵部卿に任ぜられる。長和年間から寛仁年間(1017年-1021年)まで大宰帥に在任していた。治安3年(1023年)頃に叔父の参議・藤原通任の邸宅に居住していたが、起居の場として東廊を宛がわれており[2]、居候的な立場にあった。
万寿4年(1027年)、兄敦儀親王を飛び越えて二品に昇叙され、事実上の王氏長者になる。この異例の人事には、藤原道長・頼通父子の意向が反映されていたと考えられる。万寿2年(1025年)頃に敦平親王は中納言・藤原兼隆の娘と結婚したが、当時、道長の娘威子(後一条天皇中宮)は兼隆の邸宅を御在所にしており、敦平親王も婿として兼隆邸にいたからである。その後兼隆の奔走により王氏爵を推挙する権利を得たという[3]。
長元4年(1031年)正月の王氏爵において、前大宰大弐・藤原惟憲の陰謀により大蔵光高を「良国王」と偽って推挙してしまう。一旦良国王は従四位下に叙せられるものの、陰謀はたちまち露見し叙位は取り消される[4]。結局3月になって敦平親王は式部卿の職務を停止され、藤原惟憲は参内を禁じられている[5]。なお、同年9月には敦平親王の職務停止は解除された[6]。
系譜
編集『尊卑分脈』による。