牧野成傑

江戸時代の旗本 (1769-1838)

牧野 成傑(まきの しげたけ)は、江戸時代中期から後期にかけての旗本通称は多門、内匠、主計、靫負。官位従五位下大和守。采地は2500石。  

 
牧野成傑
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 明和6年(1769年
死没 天保9年(1838年
改名 成久(初名)→成傑
別名 多門、内匠、主計、靫負
官位 従五位下大和守
幕府 江戸幕府旗本
主君 徳川家治家斉
氏族 形原松平家牧野氏
父母 父:松平信直、養父:牧野資成
兄弟 松平信道松平信愛戸田光弘
巨勢利和成傑松平直温彦坂重教松平直義松平貞幹松平勝全正室、
溝口直舊正室、太田資承正室
前室:牧野資成
後室:牧野則成
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略歴

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丹波亀山藩主・松平信直の五男として誕生した。牧野資成の婿養子となる(後妻は牧野則成の娘)。初名は成久。

安永3年(1780年)遺領を継いだ。天明8年(1788年)4月西丸書院番士となり、12月中奥番士となる。寛政10年(1798年)1月使番となり、12月に布衣を着ることを許された。その後、駿府町奉行を務め、文化3年(1806年京都西町奉行となる。文化8年(1811年作事奉行となり、文化10年(1813年長崎奉行となり、文化12年(1815年新番頭となった。

参考文献

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