瀬川浅
瀬川 浅(せがわ せん / あさし[1]、1853年2月21日(嘉永6年1月14日) - 1926年(大正15年)11月25日[1])は、明治時代に九州地方を中心に活躍した牧師である。
せがわ せん / あさし 瀬川 浅 | |
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生誕 |
1853年2月21日 日本武蔵国江戸 |
洗礼 | 1873年9月 |
死没 |
1926年11月25日(73歳没) 日本東京府東京市 |
国籍 | 日本 |
別名 | 鎌十郎 |
出身校 | 東京一致神学校 |
職業 | 牧師、教育者 |
配偶者 | 藤山つや、北村サダ |
子供 | 瀬川直一、浩二、譲三 |
親 | 父:瀬川剛司、母:茂登 |
経歴
編集中津藩の儒者である瀬川剛司の子として江戸で生まれる[1]。幼名は直(なおし)。彼の父親である剛司は広瀬蒙斎の二男で、後に瀬川氏の養子となった[2]。
瀬川は長崎で、アメリカ・オランダ改革派教会の宣教師ヘンリー・スタウトの元で学び、1873年(明治6年)9月に洗礼を受けた。翌年3月からは、スタウトと共に説教をするようになった。1876年(明治9年)には、スタウトと瀬川で長崎日本基督公会を組織した。1877年(明治10年)9月に東京一致神学校が開校されると、神学生として学ぶために派遣される。植村正久、押川方義、井深梶之助、三浦徹らと共に、東京一致神学校の第一期生として学び、翌年1878年卒業しに教師資格を得て、長崎に戻る。当時、西南戦争で荒廃した鹿児島に留川一路と一緒に派遣され、伝道所を開設する。鹿児島に定住して伝道を続ける。そして、平山武知という協力者を得ている。そして、三年後の1881年(明治14年)には日本基督一致教会鹿児島教会(現日本基督教団)を組織している。1889年には山下町に会堂を移転し、都城、志布志、指宿など薩摩、大隅全域に伝道活動を始めた。
1881年(明治14年)7月に日本基督一致教会の西部中会が設立されると、瀬川と青山昇三郎と服部章蔵が牧師となる。1887年(明治20年)に長崎にスティール・アカデミー(東山学院)ができアルバート・オルトマンスが初代院長になると、瀬川はスタウトと共に教職者養成に集中した。卒業たちは、長崎、諫早、大村、唐津、佐賀、久留米、人吉、鹿児島、垂水などで伝道活動を行った。
著書
編集- 聖経歴史指南(1888年)
- 耶蘇教略解(1888年)
- 設氏説教学(1893年)
- 聖経地誌(ホルボット著、瀬川浅訳)