溝口直信
江戸時代中期の越後新発田藩の世嗣。従五位下・伯耆守。溝口直温の六男。子に富六郎(次男、早世)、房姫(次女、早世)
溝口 直信(みぞぐち なおのぶ)は、江戸時代中期の越後国新発田藩の世嗣。官位は従五位下・伯耆守。
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 宝暦6年3月12日(1756年4月11日) |
死没 | 天明6年7月12日(1786年8月5日) |
改名 | 恵三郎(幼名)、直堅(初名)、直信 |
戒名 |
光通全達観浄院 観浄院殿前伯州大守光通全達大居士 |
墓所 | 東京都文京区吉祥寺 |
官位 | 従五位下伯耆守 |
藩 | 越後新発田藩世嗣 |
氏族 | 溝口氏 |
父母 |
溝口直温、松平信祝娘・留姫 溝口直養 |
兄弟 |
直養、直之、直経、幸之助、茂十郎、 直信、山口弘務、堀徳三郎、政姫、 民姫、吉姫、勝姫 |
妻 | 松平武元娘・侶姫 |
子 |
直侯、富六郎、春姫、房姫、筆姫、 富姫、秀姫、阿姫、完姫、幾姫 |
経歴
編集越後国新発田藩7代藩主・溝口直温の六男として誕生。幼名は恵三郎。諱は初め直堅、のち直信と改める。
宝暦11年(1761年)5月27日、8代藩主である兄・直養の養子となり、世子とされる。明和6年(1769年)3月1日、徳川家治に初めて拝謁する。安永元年12月18日(1773年)、従五位下・伯耆守に叙任される。天明5年(1785年)、病身の直信には家督相続は難しいとして、その廃嫡がはかられる事件(退身一件)が起きた。この事件の背景には生母の清涼院の意向があったとも言われ、その後しばらく続く藩内の権力抗争の幕開けでもあった。
天明6年(1786年)に直信は世子に復帰するが、同年7月12日に江戸において31歳で没した。法号は光通全達観浄院(観浄院殿前伯州大守光通全達大居士とも)。江戸駒込の吉祥寺に葬られる。家督以前に没したため、直養の家督は直信の長男・直侯が継いだ。
系譜
編集子女は2男8女[1]。
脚注
編集- ^ 新発田藩「御記録」(『新発田市史資料第一巻 新発田藩史料(1)』所収)に拠る。『寛政重修諸家譜』では1男5女。順序にも異同がある。