河後森城(かごもりじょう)は、愛媛県北宇和郡松野町松丸にあった日本の城山城)。国の史跡[2]

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河後森城
愛媛県
別名 河後森城、川後森城
城郭構造 山城
天守構造 有り、後に宇和島城月見櫓へ転用
築城主 渡辺氏
築城年  伝・建久7年(1196年
主な改修者 伊達氏
主な城主 渡辺氏戸田勝隆、桑折氏
廃城年 元和元年(1615年
遺構 石垣、土塁、堀切[1]、門(現・永昌寺山門)
指定文化財 国の史跡
再建造物 門、建物
位置 北緯33度13分25.0秒 東経132度42分31.0秒 / 北緯33.223611度 東経132.708611度 / 33.223611; 132.708611 (河後森城)座標: 北緯33度13分25.0秒 東経132度42分31.0秒 / 北緯33.223611度 東経132.708611度 / 33.223611; 132.708611 (河後森城)
地図
河後森城の位置(愛媛県内)
河後森城
河後森城
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構造

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四万十川の支流・広見川と、さらにその支流の堀切川鰯川に囲まれた馬蹄形の独立丘陵上にある。山頂の本郭を中心に、二段・三段の平坦地が設けられ、古城~本城~新城と馬蹄形に曲輪が設けられていた[3]。馬蹄の中央は風呂ヶ谷と呼ばれる谷戸となっている[3]。発掘調査が行われて、掘立柱建物跡が複数確認されており、調査結果を踏まえて城内に門や建物が復元されている。また16世紀終わりから17世紀初頭の頃に大きな改修を受けており、瓦葺きの建物や多聞櫓等の存在が確認され、天守相当の建物が存在したと言われている。

沿革

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川原淵殿と呼ばれた渡辺氏が代々の居城としており、天文後期から天正年間にかけて機能した。天正8年(1580年)から翌年の間に、城主の渡辺教忠の近習だった芝政景(芝源三郎)が土佐国長宗我部氏に寝返り、謀略により当城を奪った。天正11年(1583年)の四国の役の後、当地を宛がわれた豊臣氏家臣の戸田勝隆により芝政景は放逐された。その後、当地を治めた藤堂高虎は当城の天守を移築して宇和島の自城板島城の月見櫓にしたと伝わる。慶長19年(1614年)に伊達秀宗宇和島藩を創立した際、付家老桑折景頼(石母田景頼)が当城に入っている。元和元年(1615年)の一国一城令により廃城になったとされる。

2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(179番)に選定された。

脚注

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  1. ^ 二重の連続堀切も存在した(高山2000、388頁)。
  2. ^ 松野町ホームページ
  3. ^ a b 高山2000、387頁

参考文献

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  • 日本歴史地名大系 (オンライン版)
  • 河後森城の解説
  • 高山剛「史跡河後森城跡の発掘調査について」『中世城郭研究』第14号、2000年7月、386-389頁、ISSN 0914-3203  - 『桝形虎口の再検討』[第16回 全国城郭研究者セミナー(1999年8月7日開催)]における報告を活字化したもの。

関連項目

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外部リンク

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