水戸徳川家
水戸徳川家(みととくがわけ)もしくは水府徳川家(すいふとくがわけ)は、清和源氏新田氏の支流と称する徳川宗家の分家である武家・華族だった家。江戸期に御三家の一つとして常陸国水戸藩主を世襲した。単に水戸家ともいう[1]。明治維新後、当初は侯爵家に列し、のち公爵家に陞爵した[2]。御三家の中で公爵に列したのはこの家のみである[3]。
徳川氏 (水戸徳川家) | |
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水戸三葵(一例) | |
本姓 | 称・清和源氏 |
家祖 | 徳川頼房 |
種別 |
武家 華族(侯爵→公爵) |
出身地 | 山城国 |
主な根拠地 |
常陸国水戸 東京市渋谷区 |
著名な人物 |
徳川光圀(水戸黄門) 徳川斉昭 徳川慶喜 徳川圀順 |
支流、分家 |
高松松平家(武家・伯爵) 守山松平家(武家・子爵) 石岡松平家(武家・子爵) 宍戸松平家(武家・子爵) 長倉松平家(武家) 松戸徳川家(子爵) |
凡例 / Category:日本の氏族 |
歴史
編集江戸時代
編集家祖は、江戸幕府初代征夷大将軍である徳川家康の末男であった頼房である。水戸藩は東北諸藩の反乱に備えて北関東の拠点として作られた藩であり[4]、表高は当初25万石だったが、元和8年(1622年)に28万石、元禄14年(1701年)に36万石となった[5]。しかし、その領地は常陸と東北地方の境だったので、耕地が少なく生産力も低かった[4]。
格式は御三家の一つとして大廊下に詰め、屋形号を許されていた。官位では尾張徳川家・紀州徳川家が大納言を極官としたのに対し、水戸家はそれよりも低い中納言を極官とした。参勤交代の対象とはならず、江戸の小石川邸に常住する定府大名だった[4]。このことから、俗称として「副将軍」という呼び名が起こったと考えられる[4]。一方、家格で上位となる駿河徳川家や御両典(甲府徳川家・館林徳川家)の存在もあって、御三家の第3の家という位置づけが確立されたのは、徳川家宣が将軍となって甲府家が解消したのちのことであった。
御連枝(分家)に、高松松平家(常陸国下館藩→讃岐国高松藩)[6]・守山松平家(常陸国額田藩→陸奥国守山藩→常陸国松川藩)[7]・石岡(府中)松平家(常陸国保内藩→府中(石岡)藩)[8]・宍戸松平家(常陸国宍戸藩)[9]の4家がある。いずれも、子だくさんであった頼房の庶子を家祖とする。
歴代当主は比較的長命で、無子の者も少なく、御連枝も含めて養子のやりとりはあっても頼房の血統を保っている。また、江戸後期には他家へ多くの養子を出している。
頼房の三男であった2代・光圀(義公)は「水戸黄門」として著名である。光圀は『大日本史』の編纂を開始し、天皇と朝廷を深く尊び、湊川神社に後醍醐天皇の忠臣・楠木正成(大楠公)の碑を建てるなど、尊皇運動に尽くした[10]。光圀以来、水戸藩内には尊皇を支柱とする水戸学が誕生し、幕末の尊皇攘夷運動に多大な影響を与えた[5]。水戸家は親藩の御三家ではあるが、水戸学を奉じる勤皇家の家として「もし将軍家と朝廷との間に戦が起きたならば躊躇うことなく帝を奉ぜよ」との家訓があったとされる[注 1]。
9代・斉昭(烈公)は強烈な尊皇攘夷派として知られ、海防強化や天皇陵修復[10]、弘道館を作っての後期水戸学による藩士の教化、領内の廃仏毀釈の徹底による寺院圧迫など尊皇思想に貫かれた政策を実施し、さらに日米修好通商条約無勅許調印反対運動を主導したが、大老井伊直弼と対立して安政の大獄で失脚した[12]。なお、斉昭の七男慶喜は、一橋徳川家に養子に入った後に将軍となった[13]。
幕末の尊皇攘夷運動の火付け役となった家であったが、斉昭の死後には尊皇攘夷派と佐幕派の藩内抗争が繰り返されて混乱状態に陥り、時勢の指導権を失ったまま明治維新を迎えた[4]。
明治以降
編集11代・昭武は、元は清水徳川家を相続の上でフランスに留学していたが、維新後の混乱と長兄の10代・慶篤の死を受け、明治元年(1868年)に帰国して、翌明治2年(1869年)に生家の水戸家を相続した。同年には箱館戦争に官軍として加わっている。6月17日(7月15日)に版籍奉還で知藩事に転じるとともに華族に列し[15]、9月14日には戦功により賞典禄3500石を下賜された[15][16]。明治4年7月14日(1871年8月29日)の廃藩置県まで知藩事を務めた[15]。
版籍奉還の際に定められた家禄は、現米で5773石[17][18][注 2]。明治9年(1876年)の金禄公債証書発行条例に基づき、家禄と賞典禄(実額850石)の合計6623石と引き換えに支給された金禄公債の額は、18万6276円96銭(華族受給者中33位)であった[18]。
明治8年(1875年)4月4日には東京隅田川沿いの小梅村にある水戸徳川邸に明治天皇の行幸があり、明治維新の原動力となった水戸学の発展に尽くした徳川光圀・斉昭の遺文や絵画が天覧に供された。昭武とその親族たちも天皇の謁を賜り、その中には斉昭生母・補子の姿もあった。天皇は光圀と斉昭の尊皇の功績を称えるとともに、その志を継ぐようにとの勅語を昭武に下した。また水戸徳川邸の桜を天覧した際に、天皇は「花ぐはしさくらもあれどこのやどの代代のこころをわれはとひけり」という、満開の桜以上に水戸徳川家の代々の尊皇の志に最も感銘を受けたという御製を詠んでいる[20][21]。
昭武の隠居後、その甥の徳川篤敬が家督を継ぎ、1884年(明治17年)に華族令が施行されると篤敬は侯爵に列した[22]。御連枝の松平4家のうち高松松平家は伯爵[23]、他の3家はいずれも子爵家に列している[24]。また、昭武の実子である徳川武定も子爵に叙されている(松戸徳川家)[25]。
篤敬は駐イタリア特命全権公使や式部次長、貴族院議員などを歴任した[26]。明治31年(1898年)に篤敬が死去すると、長男の圀順が侯爵位を襲爵した[27]。
大正9年(1920年)には、長野県軽井沢にあめりか屋が建設した水戸徳川侯爵家の別荘が竣工している。徳川慶喜家2代当主慶久公爵の別荘の背後に位置する小高い丘の上に建設され、木造2階建て、屋根裏付きの建物で、外観は全面長押挽下見坂張仕上げであり、妻部分のみ堅羽目仕上。屋根は寄棟切り上げで、塔の部分は尖り屋根になっている。南側はベランダがあり、屋根は三角破風が2つ連続しているなど、当時のあめりか屋の技量を知るうえで重要な建物になっている。現存している建物であり、戦後の所有者は内閣総理大臣を務めた田中角栄だった[28]。
歴代当主に尊皇家が多かった水戸家は、明治以降に位階を追贈されることが多かった。とりわけ光圀と斉昭の位階は引き上げられ、明治2年(1869年)には両名とも従一位が追贈され、明治33年(1900年)には光圀に正一位、明治36年(1903年)には斉昭にも正一位が追贈されている。光圀が明暦3年(1657年)に始めて以来、水戸家が続けてきた全397巻(うち本紀73巻、列伝170巻)からなる『大日本史』は、明治39年(1906年)に完成を見た。その内容は尊皇思想に貫かれ、皇統を明らかにして南朝を正統としたことなどを特色とする[29]。
昭和4年(1929年)に「大日本史の編纂を完成し皇室国家に貢献したる功」が認められ、当時の当主徳川圀順侯爵が公爵に陞爵した。その功績調書には、『大日本史』編纂に果たした勤王思想、第98代長慶天皇を正統に列したこと、歴代天皇陵を捜索して修復した功績、楠木正成の顕彰などが列挙されており、明治以降はもちろん維新前からの歴代当主の尊皇思想が評価されたものであった[30]。尾張家と紀州家は侯爵のままだったので、御三家で家格が一番高い家になった[3]。
昭和前期の水戸徳川公爵家の邸宅は、東京市渋谷区猿楽町にあった[10]。昭和13年(1938年)には同地に、建築家土浦亀城の設計でコンクリート造2階建て(地下室付き)の昭和モダンチックな大邸宅を建設している。扇方の邸宅で中庭があった。邸宅の北面にはテニスコートや車庫、車洗場も備えていた[31]。
圀順は、財団法人水府明徳会を設立して伝来の大名道具や古文書を寄贈し、散逸を防ぐ措置を取った。旧蔵品の一部は『徳川将軍家御三家御三卿旧蔵品総覧』(宮帯出版社)に編集・収録されている。昭和52年(1977年)、水戸市の光圀の茶室跡に彰考館徳川博物館(現・徳川ミュージアム)を開き、その保存・展示に努めている。
歴代当主と後嗣たち
編集水戸家は儒教を尊ぶ気風が強く、歴代当主と夫人には漢風の諡号が贈られている。
代数 | 肖像 | 名前(諡号) (生没年) |
続柄 | 位階 | 備考 | 後嗣 |
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1 | 徳川頼房(威公) (1603年-1661年) |
徳川家康末男 | 正三位 | 初代水戸藩主 権中納言 |
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2 | 徳川光圀(義公) (1628年-1701年) |
先代の子 | 従三位 1900年正一位追贈 |
2代水戸藩主 権中納言 通称「水戸黄門」 |
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3 | 徳川綱條(粛公) (1656年-1718年) |
先代の甥 (高松松平頼重の次男) |
正三位 1928年従二位追贈 |
3代水戸藩主 権中納言 |
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4 | 徳川宗堯(成公) (1705年-1730年) |
先代の大甥 (高松松平頼豊の長男) |
従三位 | 4代水戸藩主 参議 |
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5 | 徳川宗翰(良公) (1728年-1766年) |
先代の子 | 従三位 | 5代水戸藩主 参議 |
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6 | 徳川治保(文公) (1751年-1805年) |
先代の子 | 従三位 1907年正二位追贈 |
6代水戸藩主 権中納言 |
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7 | 徳川治紀(武公) (1773年-1816年) |
先代の子 | 従三位 | 7代水戸藩主 参議 |
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8 | 徳川斉脩(哀公) (1797年-1829年) |
先代の子 | 従三位 | 8代水戸藩主 権中納言 |
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9 | 徳川斉昭(烈公) (1800年-1860年) |
先代の弟 (7代治紀の三男) |
従三位 1903年正一位追贈 |
9代水戸藩主 権中納言 |
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10 | 徳川慶篤(順公) (1832年-1868年) |
先代の子 | 従三位 | 10代水戸藩主 権中納言 |
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11 | 徳川昭武(節公) (1853年-1910年) |
先代の弟 (9代斉昭の十八男) |
従一位 | 11代水戸藩主→知藩事→廃藩置県 1883年隠居 |
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12 | 徳川篤敬(定公) (1855年-1898年) |
先代の甥 (10代慶篤の長男) |
従二位 | 侯爵 駐イタリア特命全権大使 式部次長 貴族院議員 |
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13 | 徳川圀順(明公) (1886年-1969年) |
先代の子 | 正四位 | 侯爵→公爵 貴族院議長 日本赤十字社社長 |
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14 | 徳川圀斉(敬公) (1912年-1986年) |
先代の子 |
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15 | 徳川斉正 (1958年-存命中) |
先代の子 |
系譜
編集凡例:太線は実子、破線は養子、太字は各家の当主
水戸徳川家・高松松平家
編集頼房1 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
【高松】 松平頼重1 | 光圀2 | 【守山】 松平頼元 | 【石岡】 松平頼隆 | 〔求馬〕 松平頼利 | 【宍戸】 松平頼雄 | 〔長倉〕 松平頼泰 | 松平頼以 | 松平房時 | 雑賀重義 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
松平頼常2 | 綱方 (水戸家へ) | 綱條 (水戸家へ) | 松平頼考 | 【図書】 松平頼章 | 【大膳】 松平頼芳 | 綱方 | 綱條3 | 松平頼常 (高松家へ) | 松平頼福 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
松平頼泰 | 松平頼豊3 | 松平頼豊 | 松平頼煕 | 吉孚 | 松平頼明 (石岡家へ) | 松平頼匡 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宗堯 (水戸家へ) | 松平頼治 | 松平頼桓4 | 松平頼桓 | 蜂須賀宗鎮 (松平頼珍) | 蜂須賀至央 (松平頼央) | 宗堯4 | 美代姫 | 松平頼忠 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
松平頼恭5 [※ 1] | 蜂須賀至央 (松平頼央) | 松平頼順 | 宗翰5 | 松平頼脩 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
松平頼真6 | 松平頼起 | (大膳) 松平頼昌 | 松平頼裕 | 松平頼図 | 治保6 | 松平頼図 (松平頼順養子) | 松平頼救 (宍戸家へ) | 松平保受 | 松平保福 (長倉家へ) | 中山信敬 | 松平保福 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
松平頼儀 | 松平頼起7 | 述姫 (松平頼起正室) | 雅姫 (松平頼慎正室) | 治紀7 | 松平義和 (高須家へ) | 土屋彦直 | 山野辺義質 | 松平頼紹 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
松平頼儀8 | 厚姫 (松平頼誠継室) | 斉脩8 | 松平頼恕 (高松家へ) | 斉昭 | 松平頼筠 (宍戸家へ) | 直 (斉昭側室)[※ 2] | 松平頼善 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
松平頼該 | 松平頼胤 | 松平頼顕 | 本多忠民 | 松平頼恕9 | 斉昭9 | 松平頼位 [※ 3] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
松平頼胤10 | 松平頼煕 | 松平武揚 (越智家へ) | 松平勝成 (久松家へ) | 松平頼聰 | 大久保忠礼 | 慶篤10 | 池田慶徳 | 慶喜 (一橋家→徳川宗家→徳川慶喜家) | 松平直侯 (越前(前橋)家へ) | 池田茂政 | 松平武聰 (越智家へ) | 喜連川縄氏 | 松平昭訓 | 松平忠和 (深溝家へ) | 土屋挙直 | 昭武 (清水家→水戸家) | 松平喜徳 (会津家→守山家) | 松平頼之 (守山家へ) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
松平頼温 | 松平頼和 (西条家へ) | 松平頼煕 | 松平頼聰11 | 篤敬 | 篤守 (清水家へ)[※ 4] | 昭武11 | 英子 (徳川圀順夫人) | 藤岡勝二 | 保子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
松平頼温 | 徳川義礼 (尾張家へ) | 松平頼親 | 松平頼寿12 | 松平胖 | 永井翠直 | 聰子 | 篤敬12 | 昭子 (松平頼寿夫人) | 【松戸】 武定 | 博武 (松戸家へ) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
松平頼明13 | 松平頼明 | 松平守弘 | 圀順13 | 宗敬 (一橋家へ) | 博武 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
圀斉14 | 圀禎 | 松平圀秀 (宍戸家へ) | 松平圀弘 (守山家へ) | 文武 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
斉正15 | 斉英 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
斉礼 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
守山・石岡・宍戸松平家
編集【高松】 松平頼重 | 【水戸】 徳川光圀 | 【守山】 松平頼元1 | 【石岡】 松平頼隆1 | 〔求馬〕 松平頼利 | 【宍戸】 松平頼雄1 | 〔長倉〕 松平頼泰 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
松平頼貞2 | 本多忠国 | 松平頼愛 | 松平頼方 | 松平頼寧 | 松平頼如2 | 松平頼道 | 松平頼道2 | 松平頼福 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
松平頼尚 | 松平頼寛3 | 松平定賢 (久松家へ) | 松平頼恭 (高松家へ) | 松平頼済 (石岡家へ) | 松平頼明3 | 松平頼慶3 | 松平頼明 (石岡家へ) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
松平頼羆 | 松平頼篤 | 松平頼亮4 | 松平頼融 | 松平頼溥 | 松平頼永4 | 松平武元 (越智家へ) | 遠山友明 | 松平頼幸 | 亀井茲胤 | 松平頼多4 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
松平頼孝 | 松平頼慎5 | 武田信典 | 由良(新田)貞靖 | 知久頼衍 | 松平頼幸5 | 松平頼洽 | 松平頼救5 [※ 5] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
松平頼誠6 | 松平頼賢 | 松平頼永 (西条家へ) | 松平頼済6 | 松平頼敬6 | 松平頼位 (長倉家→宍戸家) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
松平頼茂 | 松平頼音 | 松平頼升7 | 松平頼彬 | 松平頼邑 | 松平頼前7 | 太田頼陽 | 松平頼贇 | 松平頼筠7 [※ 6] | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
松平頼之8 [※ 7] | 松平頼説8 | 松平頼説 | 松平頼位8/10 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
松平喜徳9 [※ 8] | 松平頼縄9 | 中山信守 | 松平頼功 | 有馬広衆 | 谷衛滋 | 知久頼匡 | 松平頼徳9 | 松平頼安11 | 松平頼平 (守山家へ) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
松平頼平10 | 松平頼策10 | 松平頼寿 | 貴志頼邁 | 松平頼教 | 片桐貞篤 | 本多副元 | 松平頼敏 | 松平圀秀 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
松平頼栄 | 松平秋雄11 | 樋口行雄 | 森田静雄 | 松平頼孝11 | 松平頼忠 | 上野秀治 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
松平圀弘12 | 松平頼則 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
松平頼暁 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
注記
編集脚注
編集注釈
編集- ^ 烈公(斉昭)尊王の志厚く、毎年正月元旦には、登城に先立ち庭上に下り立ちて遥かに京都の方を拝し給いしは、今なお知る人多かるべし。予(慶喜)が二十歳ばかりの時なりけん。烈公一日予を招きて宣えり。おおやけに言い出すべきことにはあらねども、御身ももはや二十歳なれば心得のために内々申し聞かするなり。我等は三家・三卿の一として、幕府を輔翼すべきは今さらいうにも及ばざることながら、もし一朝事起こりて、朝廷と幕府と弓矢に及ばるるがごときことあらんか、我等はたとえ幕府に反くとも、朝廷に向いて弓引くことあるべからず。これ義公(光圀)以来の家訓なり。ゆめゆめ忘るることなかれ[11]。
- ^ 明治2年(1869年)6月17日の版籍奉還時、藩財政と知藩事の個人財産の分離のため、藩の実収入(現米)の10分の1をもって知藩事個人の家禄と定められた[19]。
出典
編集- ^ 精選版 日本国語大辞典『水戸家』 - コトバンク
- ^ 小田部雄次 2006, p. 58.
- ^ a b 小田部雄次 2006, p. 323.
- ^ a b c d e 日本大百科全書(ニッポニカ)『水戸藩』 - コトバンク
- ^ a b 精選版 日本国語大辞典『水戸家』 - コトバンク
- ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『高松藩』 - コトバンク
- ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『守山藩』 - コトバンク
- ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『府中藩』 - コトバンク
- ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『宍戸藩』 - コトバンク
- ^ a b c 華族大鑑刊行会 1990, p. 7.
- ^ 徳川慶喜 & 「烈公(斉昭)の御教訓の事」『昔夢会・徳川慶喜公回想談』.
- ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『徳川斉昭』 - コトバンク
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- ^ a b c 新田完三 1984, p. 805.
- ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会 1985, p. 51.
- ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会 1985, p. 19.
- ^ a b 石川健次郎 1972, p. 38.
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- ^ 打越孝明 2012, p. 80.
- ^ 渡辺幾治郎下巻 1958, p. 401.
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- ^ 華族大鑑刊行会 1990, p. 8.
- ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会 1996, p. 171.
- ^ 内田青蔵 1987, p. 123.
- ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典『大日本史』 - コトバンク
- ^ 小田部雄次 2006, p. 225.
- ^ 『新建築』14巻7号(新建築社、1938年)
- ^ 平成新修旧華族家系大成下p172
参考文献
編集- 青木信夫『日本近代における皇族・華族邸宅の成立と展開に関する歴史的研究』1996年(平成8年) 。
- 石川健次郎「明治前期における華族の銀行投資―第15国立銀行の場合―」『大阪大学経済学』第22号、大阪大学経済学部研究科、1972年、27 - 82頁。
- 打越孝明 著、明治神宮 編『明治天皇のご生涯』新人物往来社、2012年。ISBN 978-4404042095。
- 内田青蔵『あめりか屋商品住宅 : 「洋風住宅」開拓史』住まいの図書館出版局〈住まい学大系6〉、1987年(昭和62年)。
- 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社〈中公新書1836〉、2006年(平成18年)。ISBN 978-4121018366。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『昭和新修華族家系大成 別巻 華族制度資料集』霞会館、1985年(昭和60年)。ISBN 978-4642035859。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 上巻』霞会館、1996年(平成8年)。ISBN 978-4642036702。
- 華族大鑑刊行会『華族大鑑』日本図書センター〈日本人物誌叢書7〉、1990年(平成2年)。ISBN 978-4820540342。
- ドナルド・キーン『明治天皇』 〈上巻〉、新潮社、2001年。ISBN 978-4103317043。
- 新田完三『内閣文庫蔵諸侯年表』東京堂出版、1984年(昭和59年)。
- 渡辺幾治郎下巻『明治天皇 下巻』明治天皇頌徳会、1958年(昭和33年)。
関連項目
編集外部リンク
編集- デジタル大辞泉『水戸徳川家』 - コトバンク
- 『水戸家』 - コトバンク
- 公益財団法人 徳川ミュージアム
- 水戸徳川家の 新たな史料発見[リンク切れ] 『広報みと』、2014年3月1日、P.8-9
- ウィキメディア・コモンズには、水戸徳川家に関するカテゴリがあります。