気太十千代
気太 十千代(けた の とちよ、生没年不詳)は、奈良時代の女官。気多十千代・気太命婦とも表記される。姓は無姓のち公。位階は正五位上。
出自
編集気多氏は大己貴神の後裔で、但馬・因幡・遠江・能登の各国にある気多(気太)の地名はこの氏族の名を由来とすると説がある。なお、十千代は気多神社(能登国羽咋郡)の社家出身と推察され[1]。この場合は女孺だったと思われる。また采女出身とすると、但馬国気多郡の貢進と推定される[2]。
経歴
編集『正倉院文書』に「気多(気太)命婦」とも記されている[3]。
天平17年(745年)1月、正六位下から外従五位下に叙される。同19年(747年)10月、聖武天皇により公(きみ)姓を賜与される。
正倉院宝物である天平勝宝4年(752年)4月の大仏開眼会の献納物の紙箋3枚のうちに「気多十千代献」の墨書があり[4]、同5年(753年)9月、「気太命婦」の名で『理趣経』書写のために紅紙を納めている。当時、藤原宮子・聖武太上天皇が相次いで没し、光明皇太后や孝謙天皇は願経、供養経の書写に明け暮れたため、命婦たちが使役されたことが窺われる。
官歴
編集『続日本紀』による