横山通英
横山 通英(よこやま みちひで、1859年5月18日(安政6年4月16日[1][2][注釈 1])- 1916年(大正5年)12月5日[3])は、明治期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員、宮崎県西諸県郡小林村長。
経歴
編集日向国諸県郡小林郷細野村(鹿児島県諸県郡、宮崎県[3]北諸県郡、西諸県郡小林郷細野村、小林村大字細野[4]、小林町[5]を経て現小林市細野)で、農業・横山通章、タメの長男として生まれた[1][2]。赤木通園、谷山照方に師事し漢学を修めた[4]。小林小学校、都城学校、宮崎学校で学んだ[4]。1875年(明治8年)12月、宮崎学校師範学科(のち宮崎師範学校)を卒業し[1][3][4][6]、1876年(明治9年)1月から1881年(明治14年)1月まで小林小学校訓導を務めた[3][4][5][6]。また岡千仭に師事して漢学の学びを深めた[4]。1889年(明治22年)3月、家督を相続した[2]。
1883年(明治16年)4月、諸県郡細野村外八ヶ町村学務委員に就任[3][4][6]。その後、同郡真方村外3ヶ村戸長兼学務委員となる[3][4][6]。1886年(明治19年)7月、宮崎県会議員に選出され[3][4][5][6]、1892年(明治25年)3月まで2期在任した[4]。その他、徴兵参事員、常置委員、地方衛生会委員、西諸県郡参事会員も務めた[1][3][4][5][6]。1889年(明治22年)5月、小林村会議員となり[3][4][6]、同年6月、小林村長に就任し1890年(明治23年)5月まで在任した[3][4][5][6]。
1898年(明治31年)3月、第5回衆議院議員総選挙(宮崎県第2区)で当選し[1][7]、次の第6回総選挙でも再選され、最後は立憲政友会に所属して衆議員議員に連続2期在任した[3][5][6]。
実業界では1887年(明治20年)6月、小林製糸場取締に就任[4]。以後、西諸県郡蚕業組合組長、小林農会長、宮崎新報社取締役、宮崎県農工銀行設立委員、同取締役などを務めた[1][2][3][4][5][6]。
国政選挙歴
編集- 第4回衆議院議員総選挙(宮崎県第2区、1894年9月、立憲革新党)次点落選[7]
- 第5回衆議院議員総選挙(宮崎県第2区、1898年3月、無所属)当選[7]
- 第6回衆議院議員総選挙(宮崎県第2区、1898年8月、憲政党)当選[7]
脚注
編集注釈
編集- ^ 『衆議院議員列伝』225頁では4月13日
出典
編集参考文献
編集- 山崎謙編『衆議院議員列伝』衆議院議員列伝発行所、1901年。
- 成瀬麟、土屋周太郎編『大日本人物誌 : 一名・現代人名辞書』八紘社、1913年。
- 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
- 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 宮崎県政外史編纂委員会編『宮崎県政外史』宮崎県政外史刊行会、1967年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。