松平直哉
松平 直哉(まつだいら なおとも[1]、なおとし[2])は、出雲国母里藩の第10代(最後)の藩主。直政系越前松平家母里藩分家10代。官職は志摩守、主計頭[1]。
時代 | 江戸時代後期(幕末) - 明治時代 |
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生誕 | 嘉永元年2月29日(1848年4月2日) |
死没 | 明治33年(1900年)1月3日 |
改名 | 悦之進(幼名)、直哉 |
墓所 | 天徳寺 |
官位 | 従五位下、志摩守、主計頭、正四位 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 出雲国母里藩藩主 |
氏族 | 越前松平家(母里松平家) |
父母 | 父:松平直温、母:吉村氏 |
妻 | 道子(堀田正睦の四女)[1] |
子 | 直敬、繁一郎、浩二郎、武(堀田正倫養子、離縁) |
明治維新後、母里藩知事、子爵[2]。東京市赤坂区区会議員、同副議長、同区学務委員などを歴任[2]。貴族院議員を務めた[2]。
略伝
編集嘉永元年(1848年)2月29日、第9代藩主・松平直温の長男として生まれる[3]。幼名は悦之進[3]。母は側室・吉村氏[3]。
安政3年(1856年)9月、父が亡くなり、12月15日、家督を継いだ[3][1]。文久2年(1862年)12月16日、従五位下主計頭となる[3]。元治元年(1864年)の第1次長州征伐に藩は消極的な立場をとった。後に幕府に懇願して10万石の格式を許されている。
明治2年(1869年)6月25日、版籍奉還により母里藩知事に任じられる[3]。明治3年(1870年)の藩政改革では士族の帰農政策を推進したが失敗した。明治4年(1871年)7月15日、廃藩置県で藩知事を免職された[3]。このとき東京へ移ろうとしたが、領民の反対にあっている。
明治8年(1875年)12月、島根県・母里小学校(現・安来市立母里小学校)に資金を出している[4]。
明治17年(1884年)7月8日、華族令により子爵となった[4]。明治23年(1890年)7月10日、貴族院議員(子爵議員)に就任し、死去するまで在任した[5][2]。
脚注
編集参考文献
編集- 維新史料編纂会 編『現代華族譜要』日本史籍協会、1929年1月15日。NDLJP:1879484。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 『徳川諸家系譜』 第四、続群書類従完成会、1984年12月5日。NDLJP:12209719。(要登録)
- 衆議院・参議院 編『議会制度百年史 貴族院・参議院議員名鑑』1990年11月。NDLJP:9673684。(要登録)
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 (母里)松平家初代 1884年 - 1897年 |
次代 松平直敬 |