東慶寺

神奈川県鎌倉市にある寺院

東慶寺(とうけいじ)は、神奈川県鎌倉市山ノ内にある臨済宗円覚寺派寺院である。山号は松岡山、寺号は東慶総持禅寺。寺伝では開基は北条貞時開山覚山尼と伝える。現在は円覚寺末の男僧の寺であるが、開山以来明治に至るまで本山を持たない独立した尼寺で、室町時代後期には住持は御所様と呼ばれ、江戸時代には寺を松岡御所とも称した特殊な格式のある寺であった[注 1]。また江戸時代には群馬県満徳寺と共に幕府寺社奉行も承認する縁切寺として知られ、女性の離婚に対する家庭裁判所の役割も果たしていた。

東慶寺
本堂
所在地 神奈川県鎌倉市山ノ内1367
位置 北緯35度20分6.88秒 東経139度32分44.27秒 / 北緯35.3352444度 東経139.5456306度 / 35.3352444; 139.5456306座標: 北緯35度20分6.88秒 東経139度32分44.27秒 / 北緯35.3352444度 東経139.5456306度 / 35.3352444; 139.5456306
山号 松岡山
宗派 臨済宗円覚寺派
寺格 鎌倉尼五山二位
本尊 釈迦如来
創建年 1285年(弘安8年)
開基 北条貞時覚山尼(開山)
正式名 松岡山 東慶総持禅寺
別称 縁切寺、駆込寺、駆入寺
札所等 鎌倉三十三観音32番
文化財 木造聖観音立像・初音蒔絵火取母・葡萄蒔絵螺鈿聖餅箱(重文)他
法人番号 3021005001945 ウィキデータを編集
東慶寺の位置(神奈川県内)
東慶寺
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山門。江戸時代には街道に面して大門があり
現在の山門は中門で男子禁制の結界だった。
円覚寺から見下ろす東慶寺全景
東慶寺の参道

※境内での写真撮影は以前より一眼レフでの撮影のみが禁止されていたが、より一層のマナー悪化のためスマートフォンを含む全ての撮影が2022年06月07日から禁止となった[1]

歴史

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鎌倉時代

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伊豆韮山にある旧東慶寺梵鐘の銘文

東慶寺に残る過去帳等によれば「開山潮音院覚山志道和尚」とある[2]覚山尼安達義景の娘で、鎌倉幕府の第8代執権北条時宗の夫人である。

1284年(弘安7年)4月、北条時宗の臨終の間際、無学祖元を導師として夫婦揃って落髪(出家)し、覚山志道大姉と安名し[3][2]。そして翌1285年(弘安8年)に第9代執権・北条貞時を開基、覚山尼を開山として当寺は建立されたと伝える[4]

ただしそう伝える東慶寺の古文書は江戸時代のものであり、現存する古文書で覚山尼を東慶寺開山とするもっとも古いものは戦国時代天文頃の『五山記考異』である[2][5][注 2]

鎌倉時代の東慶寺に関する確実な史料は梵鐘の銘文である。鎌倉幕府滅亡前年の1332年(元徳4年)に東慶寺の梵鐘が完成した。ただし今は東慶寺にはなく、静岡県韮山の本立寺にある[6][7][注 3]。その銘文によると大檀那は覚山尼の子、9代執権北条貞時の妻覚海円成である。住持に果庵了道の名があり[注 4]

他に首座(しゅそ)比丘尼、都寺(つうず)比丘尼の名も見える[注 5]。このことから東慶寺は鎌倉時代からあり、かなりの規模を持つ北条得宗家ゆかりの尼寺であったことは確実とされる[6][注 6]

南北朝時代

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東慶寺の「過去帳」には、四世住持果庵了道尼のあと南北朝時代後醍醐天皇の皇女用堂尼が五世住持となったとある。「由緒書」[8]ではこの用堂尼以来「松岡御所」と称され「比丘尼御所同格紫衣寺なり」とする。用堂尼は兄の護良親王の菩提を弔う為に東慶寺に入ったとされ、護良親王が殺された当時東光寺[9](現鎌倉宮)周辺、二階堂の地を東慶寺が領有していたのはそのためという。

護良親王の墓所・理智光寺等は少なくとも江戸時代には東慶寺が管理しており、明治時代の鎌倉宮創建に際しては東光寺跡地を寄進している。ただし東慶寺の「過去帳」および「由緒書」は江戸時代のものであり、それ以前に用堂尼を記した古文書は現存しない[8]

室町から戦国時代

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同寺は1515年(永正12年)に火災があり、本尊の墨書銘に「本尊計出候、菩薩座光取出」とあるので、それ以前の古文書のほとんどはその際に焼失したと思われる[10][11][注 7]。「御所」の称号がある最古の史料はその火災から数十年後の北条氏康の書状である[12][13][注 8]

五世用堂尼以降の室町時代の住持は16世までは過去帳に名前のみ記されているだけで、出身も没年も不明である。寺以外の文書からは室町時代には鎌倉尼五山第二位とされていたこと、代々関東公方(鎌倉公方古河公方小弓公方)の娘が住持となっていることがわかる。1454年(享徳3年)の「鎌倉年中行事」には「太平寺長老公方様姫君」とともに「松岡長老」が正月に鎌倉公方足利成氏に謁することになっており、「松岡長老」が誰かは判らないものの鎌倉公方家の女性であろうといわれている[14]

16世は「足利系図」によれば古河公方足利政氏の娘であり足利成氏の孫にあたる[15]

17世旭山尼は過去帳によると足利義明の娘である。足利義明は足利政氏の子で「小弓公方」を称して古河公方と対立し、後北条氏と戦い戦死した。その旭山尼は1557年(弘治3年)に示寂とある[12][16]。この17世旭山尼の頃の古文書は東慶寺に現存する。17世旭山尼の姉は尼五山第一位太平寺の住持青岳尼であったが、安房里見義弘に連れられて本尊を持って出奔し、義弘の妻となった事件があった[17][18]

当時鎌倉を領していた北条氏綱が東慶寺の塔頭蔭凉軒の要山尼[注 9]に里見氏との交渉を依頼し、取り返した太平寺本尊がいま東慶寺宝蔵にある聖観音立像(重文)である。なおこの事件により太平寺は廃寺となりその仏殿は後に円覚寺に移された。現在の国宝舎利殿である[19][注 10]

18世瑞山尼は足利政氏の孫、古河公方足利高基の娘であり、示寂は1588年(天正16年)6月10日である[14]

19世瓊山法清尼は小弓公方足利義明の子足利頼純の娘であり[14][注 11]、17世旭山尼や太平寺最後の住持青岳尼の姪にあたる。18世瑞山尼示寂の後、後任を安房の足利家に求めたときの北条氏直の1588年(天正16年)の東慶寺宛印判状が残るが、「あわの国にゆうちゃく(幼弱)の御かた」とあり[20]、示寂の1644年(寛永21年)まで56年間あるので、かなり幼い頃に東慶寺に入ったと思われる[21]

戦国時代の寺領

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旧東慶寺領二階堂(永福寺跡

鎌倉時代には北条氏の、室町時代には関東公方戦国時代には後北条氏の庇護を受けているが、徳川家康以前の寺領についてははっきりしない。鎌倉時代については全く判らない。室町時代には関東公方足利氏満下総国東庄小南郷の勝福寺への寄進状が東慶寺文書に有るので[22]、勝福寺の寺領を東慶寺が引き継いだとも推測できるが詳細は不明である。北条氏綱の書状には上総国君津郡萬里谷新地のことが出てくる[23]

寺領の貫高が出てくる文書は、まず東慶寺門前の3貫40文を東慶寺蔭凉軒に安堵する1547年(天文16年)の北条氏直印判状が残る[24][注 12]。ただしこれは寺領の極一部であり、この時点での全体像は判らない。次は1559年(永禄2年)の「小田原衆所領役帳」であり30貫文とある[25][注 13]。それから10数年後の天正年間の寺領には山内荘内の2か所が見える。舞岡、野庭である。1574年(天正2年)8月17日の北条氏政印判状によると野葉郷(現神奈川県横浜市港南区野庭)は106貫367文[26]。同日の前岡郷(現横浜市戸塚区舞岡)についての氏政印判状によると前岡郷は216貫753文で[27]、合計すると323貫文となる。このうち公事免や神田などの除田畠が61貫500文あるが、一方で検地による増分が約171貫文あり「此増分、御寺へ御寄進之由」とある。

1590年(天正18年)に後北条氏を下した豊臣秀吉に寺領を安堵される[28]。関東で太閤検地が行われるのはその後である為に貫高・石高は明示されていないが「検地による出分をも領知せしむ」とある。東慶寺の寺領の全容が判明するのは徳川家康の関東入り後である。1591年(天正19年)に徳川家康が出した寺領寄進状には下総国東庄小南郷も、上総国君津郡萬里谷も、山内荘の舞岡も野庭も出てこない。「先例の如く」二階堂86貫60文、十二所内20貫80文、極楽寺内6貫240文とあり、合計112貫になる[29][30][31][注 14]。この寺領は、鎌倉の寺院では円覚寺の144貫に次ぎ、鎌倉五山第一位の建長寺96貫よりも多い[注 15]。他の鎌倉五山は浄智寺6貫140文[32]、寿福寺5貫200文[33]、浄妙寺4貫300文[34]、と二桁も違う[注 16]。この寺領はその後江戸時代にも維持された。

千姫と20世天秀尼

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20世天秀尼木像。関東大震災で頭部以外は激しく損傷し、修復不能だったが、震災から70年後に以前の写真が見つかり、現在の状態に修復した[35]。左が霊牌。

天秀尼の薙染

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江戸時代には大坂落城の翌年の1616年(元和2年)に豊臣秀頼の娘の天秀尼千姫の養女として東慶寺に入り、後に20世住持となった。なおこの天秀尼以降、東慶寺は幕府(寺社奉行)直轄の寺であり住持任命も幕府による[36]

霊牌(位牌)の裏には「正二位左大臣豊臣秀頼公息女 依 東照大神君之命入当山薙染干時八歳 正保二年乙酉二月七日示寂」とある。このうち「薙染」(ちせん)が「仏門にはいる、出家する」という意味である。従って、出家は大坂落城の翌年の1616年(元和2年)、東慶寺入寺とほぼ同時期となる。出家後の名は天秀法泰。天秀が号、法泰がである[注 17]

千姫の仏殿寄進と徳川忠長屋敷の移築

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三溪園に移築された千姫寄進の旧仏殿
 
駿河大納言御殿移築の書院は関東大震災で倒壊し、同じ間取で再建された。一部に旧材を使用。

天秀尼が20世住持となった時期は1634年(寛永11年)以降、1642年(寛永19年)までの間である。1634年(寛永11年)以降というのは、東慶寺に伝える棟板の墨書銘からである[37]。ここに「住持・法清和尚」「弟子・法泰蔵主(ぞうす)」とあるので[38]、当時20代なかばであった天秀尼はまだ20世住持にはなっていなかったことになる[注 18]

東慶寺の寺例書には「駿河大納言様の御殿御寄付…客殿方丈等右御殿を以てご建立遊ばされ今に有」とあり、棟板の墨書銘はそのときのものである[38]。「駿河大納言」とは家光や千姫の弟徳川忠長であり、1633年(寛永10年)12月6日に28歳で切腹させられた。翌年その屋敷が解体されて東慶寺に寄進されたということになる[注 19]。この棟板の墨書銘には住持の19世瓊山法清尼と弟子の天秀法泰尼の他に歴史上有名な女性が二人登場する。千姫と、当時の将軍徳川家光の乳母・春日局である。この寄進を裏方として主導したのが春日局であろうと思われている[39]。この寄進は当時の東慶寺の景観を一新するもので、千姫を通じた天秀尼と徳川家との強い関係を物語っている。

新編相模国風土記稿」には仏殿も「駿河亜相忠長卿の旧館を移し賜ひ、寛永11年10月御建立あり、其時の棟板を蔵せり」とある[40][注 20]。その仏殿は1907年(明治40年)に横浜の三溪園に移築され、重要文化財として現存する。

かつては1515年(永正12年)の大火災後に建立されたものが「駿河大納言様の御殿御寄付」のときにその部材をもって修理されたのではないかとも見られていた[41]。しかし現在では仏殿は1634年(寛永11年)の千姫寄進による新築[42][43][44][注 21]、忠長卿の旧館を移したものは客殿と方丈、そして大門等とされている。現在三溪園にある旧仏殿の屋根は茅葺の寄棟造であるが、1839年(天保10年)の「相中留恩記略」の境内絵図には寄棟造よりも格式が高い入母屋造に書かれており[45]、1956年(昭和31年)の三渓園「修理工事報告書」でも建立当初は入母屋造であって、現在の状態は後世の改修と推察している[46]

寄進が千姫であるのでその入母屋造屋根は檜皮葺であった可能性もあるがそこまでの史料はない[注 22]

豊臣秀頼菩提の雲板

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父秀頼菩提の雲板 高さ53.5cm幅47.5cm

天秀尼の20世住持就任を1642年(寛永19年)以前とするのは、父秀頼(法名崇陽寺秀山)菩提のために「天秀和尚」が寛永19年に鋳造した雲板(うんばん)が残されていることによる。そこに寛永19年とあり、「和尚」とは住持であることを示している。

先代の瓊山尼はこの頃存命であったが、この時点では隠居していたことになる[47]

雲板は、禅宗寺院で庫裏や斎堂などに掛け、食事・法要などの合図に打ち鳴らす雲形の板。日本には鎌倉時代に禅宗とともに伝えられた。青銅または鉄板製であるが、東慶寺のものは青銅である[注 23]

会津四十万石改易事件

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天秀尼の千姫を通じた徳川幕府との結びつきの強さを物語る事件に1639年(寛永16年)4月16日に始まる会津騒動、会津四十万石加藤明成改易事件がある。

天秀尼と会津四十万石改易の関係を記した史料は1716年(正徳6年)に刊行された「武将感状記」という逸話集である[48]。それによると、会津四十万石の加藤明成の家老・堀主水が主君明成と対立して脱藩し、妻子を鎌倉の東慶寺に預け、自身は高野山に逃げた。加藤明成は家臣を東慶寺に差し向け、堀主水の妻子を捕縛したのかしようとしたのか、それに対して天秀尼は「大いに怒りて、頼朝より以来此の寺に来る者如何なる罪人も出すことなし。然るを理不尽の族(やから)無道至極せり。明成を滅却さすか、此の寺を退転せしむるか二つに一つぞと 、此の儀を天樹院殿に訴へ」これによって会津四十万石は改易になったと[49]

この「武将感状記」の記述が正しいとすれば、そこに伝える「比丘尼の住持大いに怒りて」は、堀主水が加藤明成に殺された1641年(寛永18年)以降、改易される1643年(寛永20年)までの間となる。

ただしこの話が記されている「武将感状記」は『雨月物語』まがいの話まであり全体としては信憑性に疑問がある。これだけで会津四十万石の改易と天秀尼の関係を史実とすることはできない。ところが堀主水の妻は確かに東慶寺に駆込んでおり、かつ天秀尼が義母千姫を通じて幕府に訴えてその助命を実現したこと、堀主水の妻は事件より30数年も後の1679年(延宝7年)10月19日に亡くなったことが、先々代住職井上禅定師の頃に明らかになった[50][注 24]

天秀尼の示寂

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中央が東慶寺20世天秀尼の墓
左が台月院の宝篋印塔

天秀尼の示寂は、霊牌、および墓碑により1645年(正保2年)2月7日 であり、37歳で死去したことが判る。その十三回忌に千姫は東慶寺に香典を送っている[51]。天秀尼の墓は寺の歴代住持墓塔の中で一番大きな無縫塔である。側に「台月院殿明玉宗鑑大姉」と刻まれた宝篋印塔があり、「天秀和尚御局、正保二年九月二十三日」と刻銘がある。天秀尼の死去の約半年後である。

東慶寺の前住職井上正道は「東慶寺にかなりの功績のあった人物、もしくは天秀尼が相当の恩義を感じていた、天秀尼にとっての功労者」「常に天秀尼のそばにいて、天秀尼を教育した人物」「天秀尼の心の拠り所であり、天秀尼の心の支えであったのではないか」と推測しているが、寺にはこの人物についての文献、伝承も一切なく、ただ墓のみが残っている[注 25]

天秀尼以降の住持

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21世永山尼

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天秀尼の示寂の後約25年は住持不在であった。蔭涼軒、海珠庵等の塔頭に尼は居たが、その格式故に誰でもという訳にはいかない。代々の住持は関東公方足利氏の娘であり、17世旭山尼、18世瑞山尼、19世瓊山尼の頃には足利氏は実力は衰えてはいても「公方」、「御所」の娘である。19世瓊山尼も先述の棟板墨書銘に「住持関東公方家左兵衛督源頼純息女法清和尚」と名乗っている。天秀尼は「右大臣従二位豊臣朝臣秀頼公息女」であるので格式は十分であったが、それらに劣らぬ者となると適格の女人が得られず寺社奉行も困却する[52]

関東足利氏は古河公方小弓公方に分裂していたが、瓊山尼の妹月桂院の奔走により、古河公方足利義氏の娘足利氏姫と、瓊山尼や月桂院の兄妹である小弓公方家の足利国朝の結婚によりかろうじて一本化され、喜連川家として存続していた。この喜連川家は徳川幕府下では他に例をみない御所号まで許された格式10万石、表高ゼロ、実高5,000石の特殊な藩である。その喜連川藩が蔭涼軒や海珠庵等東慶寺の塔頭の尼を経由して幕府寺社奉行に請願し、天秀尼の示寂の後10年後に喜連川尊信の娘が17歳で入寺する[53]。21世永山尼として住持となったのはそれから15年後の1669年(寛文9年)である[53]

22世玉淵尼

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永山尼の示寂後約21年間は再び住持不在となった。1728年(享保13年)に高辻前中納言の息女が最後の住持予定者として入山するが、このとき古例を踏んで一旦喜連川茂氏の養女となり、そのうえで東慶寺に入っている[54]。この高辻前中納言息女が22世住持玉淵尼となったのは1737年(元文2年)であるが元々病弱であったらしく住持となって直ぐに京へ戻っている。以降明治に至るまでの130年間、東慶寺には尼は居たが住持はいなかった[54]

蔭涼軒の院代時代

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蔭涼軒

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東慶寺には時代により複数の塔頭があったが蔭凉軒(いんりょうけん)はその筆頭であり、西堂の法階をもつ重職である[注 26]。先に太平寺本尊・聖観音立像を取り戻す交渉を行った蔭凉軒要山尼が出てきたが、その要山尼が大永年間(1521-1528年)頃に開いた。要山尼は道号に「山」がつくことから足利氏の出身と推定されている[55]

天秀尼示寂後の無住持時代は蔭凉軒五世法孝尼が院代(住持代行)を勤めている。東慶寺に徹宗法悟尼像が残るが[56]、この徹宗尼は21世永山尼の姪(妹天野氏室の娘)であり、蔭凉軒の庵主になった[注 27]。この蔭凉軒徹宗尼は永山尼の示寂後に院代を勤め、伯母の十三回忌に泰平殿を建立する[注 28]。そして22世玉淵尼の帰京後も院代を勤めた。

以降明治に至まで蔭凉軒の庵主が院代を勤めている。

寺役人

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寺役所跡
喜連川代官
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近世において比較的大規模な寺領をもつ寺社は、領主として領民支配を行い年貢をとっており、その為の統治機構を有している。その頂点はもちろん住持であるが、実務は代官、寺侍・寺役人と称する俗人が行っている。東慶寺も112貫という領地を持っており、御所寺という格もあって寺役所があり寺役人を置いていた[注 29]

喜連川藩より永山尼が入寺したときに飯島左衛門重貞が付人として来た。これが喜連川藩から差し向けた最初の代官・寺役人である[57]。永山尼は1707年(宝永4年)に示寂するが、喜連川藩は13回忌まで「霊供等世話致し度段」と永山尼の付人代官飯島覚右衛門を東慶寺に残し、13回忌が終わってもそのまま代官を東慶寺に置く[54]

喜連川藩は家格は高くとも実際には5,000石の小領主であり、数百石の東慶寺を差配することはかなり旨い話である[36][58]

1787年(天明7年)に蔭涼軒法清尼等がこの喜連川藩代官の収支牛耳、横領を円覚寺に訴える。円覚寺は寺社奉行に伺い、月桂寺が中に入って調停し[注 30]、喜連川の代官は引払いとなった[59]

円覚寺被官
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その後は円覚寺差配のもとに蔭涼軒主が院代として寺務執行し、寺役人は円覚寺紹介の被官が務めるが、そのあとも寺役人の不法はたびたび続いた。

5年後の1793年(寛政5年)には寺役人が境内の松杉等の大木を盗伐し隣の浄智寺側に落とした事件があった[注 31]。このとき被官を紹介した円覚寺役者(後の大用国師誠拙周樗)が東慶寺院代に詫びを入れ、円覚寺役者・東慶寺院代は被官三人に十七ヶ条の申し渡しをしている。この内 6条から13条までが縁切寺法に関することである[60]。東慶寺の寺役人は元々は円覚寺の縁で東慶寺に勤めた者だがこの頃には院代と円覚寺 対 寺役人の対立で暗雲低迷する[61]

1802年(享和元年)に蔭涼軒主耽源尼は寺役人の横暴に嫌気がさしたのか、寺の御朱印を持って円覚寺に駆込んでしまい、その後円覚寺に寺の御朱印を預けて実家の旗本大久保家[注 32]へ戻ってしまうという事件があった[62][63]。このとき東慶寺には蔭涼軒の他に清松院、永福軒という2つの塔頭があったが既に無住であり、東慶寺には住持ばかりか一人の庵主もいなくなってしまう。清松院の留守番に老尼がひとりいただけである。もはや寺とは言い難いが、しかし寺役人が東慶寺とその寺領を支配しており、翌1803年(享和2年)に寺役人は円覚寺の不法を寺社奉行へ訴え出る。簡単に云うと東慶寺の御朱印を寺役人に戻せというものである。この裁判は寺社奉行阿部播磨守の屋敷で5名の奉行列席の元で行われ[注 33]、その尋問に寺役人は満足に答えられず「恐れいるばかりでは相済まぬ、返答致せ」と寺社奉行脇坂淡路守に詰問され寺役人は敗訴となる。

ただし寺役人は東慶寺を追放された訳ではなく「右御達の趣逐一承知仕り万事御山の御指図に随ひ取計可仕候」と一札を取られて寺役人を続けた[64]

院代法秀尼

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1855年(安政2年)の寺役所図面。右側上から7畳半の内見部屋、各10畳の吟味所と白州土間。

その後、1808年(文化5年)に常陸水戸藩の姫法秀尼が蔭涼軒主・院代となっている[65][注 34]。水戸藩の姫でも住持ではなくて院代というのが東慶寺の特殊な格式である。この年に水戸藩の史館で『東慶寺考』を編纂して寄進している[65]。また水戸藩の後ろ盾で、1834年(天保5年)頃寺社奉行脇坂淡路守に年貢実収は寛永頃(1624 - 1645年)の半収と嘆き[注 35]、貸付所の許可願いを出して許され、1836年(天保7年)には江戸にも支所を設けている[66][注 36]

東慶寺の寺役所にお白洲が出来たのはこの頃と思われる。ただしこのお白洲は東慶寺領の支配者としてのもので駆込女がお白州に座らせられたわけではない[67][注 37]。また次ぎの章で触れる縁切寺法、その手続きもこの院代・蔭涼軒法秀尼の頃に整備された[68][65]。示寂は1852年(嘉永5年)である。

明治以降

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尼寺・縁切寺法の終焉

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明治維新により縁切寺法は廃止され、寺領からの年貢を失い、二階堂に山林を残すのみとなるがそれも大半は横領される[69][注 38]。最後の院代順荘尼を描いた1897年(明治30年)の小説には「維持の方法立かぬれば徒弟たりし多くの尼法師、留置の婦人、被官残らず一時に解放し寺内の法務は本山円覚寺山内の役僧に委ね現住職法孝老尼女は別房に退隠して年老いたる婢女一人と手飼の雌猫一疋とを相手に…総門山門はもとより方丈脇寮諸社など朽廃にまかせ修繕の途なきはおおかた取りこぼち薪として一片の姻と化し」とある[70]。順荘法孝尼は1902年(明治35年)78歳で死去し、尼寺東慶寺は幕を閉じる。そういう「修繕の途なき」状態の中で仏殿が原三溪に引き取られる。なお、明治10年代には庫裡が山内村の小学校になった。これが現在の小坂小学校の前身のひとつである[71]

尼寺終焉後の住職

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1903年(明治36年)、後に円覚寺管長となる古川堯道(ぎょうどう)が男僧としての第一世住職となる。その2年後の1905年(明治38年)に円覚寺管長で建長寺管長も兼務していた釈宗演が管長を辞して東慶寺の住持となり、その頃鈴木大拙がしばしば訪れ、夏目漱石も訪れる。釈宗演は1919年(大正8年)に61歳でこの寺で亡くなり、弟子の佐藤禅忠が住職となる。1923年(大正12年)9月の関東大震災で鐘楼を除く全ての建物が倒壊したが、禅忠は書院を大正末に再建し、1935年(昭和10年)本堂の再建と同時に53歳で亡くなる[72]

そのあと隣の浄智寺住職・朝比奈宗源が東慶寺住職を兼務し、昭和16年に佐藤禅忠の弟子であった井上禅定が住職となる。

この井上禅定の頃に、釈宗演の遺言であった松ヶ岡文庫を鈴木大拙の蔵書をベースに、財界人の寄付を仰ぎ設立する。尼寺東慶寺のわずかな遺産として二階堂に山林を持っていたが、永福寺跡の茅場も東慶寺が所有しており、それが鎌倉市に買い上げられたときにその代金でこれも釈宗演の遺言であった松ヶ岡宝蔵を建てた[73]。井上禅定は1971年(昭和46年)から3年間円覚寺派宗務総長として管長朝比奈宗源を補佐し、1981年(昭和56年)8月より浄智寺住職に転じて、東慶寺住職には子息の井上正道が就任する。井上禅定は晩年、鎌倉市の緑を守る活動に積極的にかかわりながら、2006年(平成18年)1月、95歳で亡くなった。歴史に詳しく 『鎌倉市史・寺社編』の東慶寺の項は井上禅定の『駆入寺』を下敷きにしている他、『円覚寺史』の共著者でもある。井上正道は2013年(平成25年)7月に亡くなり、子息の井上大光が住職に就任した。

縁切寺法

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東慶寺は、近世を通じて群馬県満徳寺と共に縁切寺(駆込寺)として知られていた。この制度は女性からの離婚請求権が認められるようになる1873年(明治6年)5月の直前、1870年(明治3年)12月まで続く[74]

東慶寺の「由緒書」には「覚山(開山の覚山尼)貞時へ願はれ候は・・・女と申すものは不法の夫にも身を任せ候事常に候う事も尋常に候えば、事により女の狭き心によりふと邪の心差詰めたる事にて自殺杯致し候もの有之、不便の事に候間、右様の者有候節は三ヶ年の内、当寺え召抱置、何卒夫の縁を切り身軽に致し存命仕ませ候寺法」云々と願い、北条貞時も母の申し出故に是非もなく、朝廷に乞いて「勅許を蒙り夫より世上に名高く寺格も格別なり[75]」とある。しかしこれには確証が無く[76][77]穂積重遠は「これははなはだ研究を要する。…ともかく縁切寺が東慶寺だけでなかったことは確かで」と書き[78]、先々代住職井上禅定も「縁切寺法が開山以来連綿と続いているという口上書きは遡及扱いにして開山に付会した書き方である」とする[68]。三年も一緒に暮らしていなければもう夫婦ではないというのは江戸時代初期には既にあった社会通念であり東慶寺に限ったことではない。この「由緒書」の記述は江戸時代の感覚である。書かれたのは1745年(延享2年)。幕府に差し出したものである[79]。ただし少なくともその江戸時代中期以降東慶寺にはそう伝えられ、そう信じて駆込みに対処してきた。

中世の女性の地位

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中世を通じて結婚・離婚という概念があったのは「家」を確立していた上中層階級だけである[注 39]

その上層階級の頂点貴族社会においても、結婚とは男が決まった女の処へ通い、その家に住み着くことであり、逆に離婚は夫がその妻の家に帰らなくなることだった。芥川龍之介の短編小説『芋粥』の原作は『今昔物語集』第26巻17話「利仁将軍若時従京敦賀将行五位語」という藤原利仁の若い頃の話である[80]。利仁は「芋粥を腹一杯食ってみたい」と云った先輩の五位殿(侍階級の下級貴族)を敦賀の自分の家は連れていくが[注 40]、その家は有仁という「勢得ノ者」の家で、利仁の妻はその娘だった。同じ『今昔物語集』第28巻1話には「近衞舎人共稲荷詣、重方女値語」がある[81]

茨田重方は妻帯者だったが仲間とともに稲荷詣に行く道で美しそうな女性を見つけ一生懸命口説く。しかしそれは重方の妻で[注 41]、逆上した妻は往来の真ん中、夫の同僚達の見ている前で夫の髷を掴み「山も響くばかりに」ひっぱたいて「今日から私のところへきたら、この神社の神罰が当たろうぞ」「来たら、必ずその足をぶち折ってくれる」と云う[82]。茨田重方は実在の人物であり武官である[83][注 42]

平安時代と鎌倉時代は政権は大きく変わったが社会風俗としてはほぼ同じである[84][85]。平安末期から鎌倉時代の東国の女性は戦闘にも加わる[注 43]

北条政子は他に例を見ない歴史的な恐妻と思われているが、他の妻も母も相当な発言力を持っている[注 44]御成敗式目にも女性の相続は当然のこととして記述されている[86][87][注 45]。女性の地頭が居たり[88][注 46]、訴訟の当事者としても女性が多数登場する[89][注 47]。妻からの離婚の訴えも出来た[90][91][注 48]

中世でも平安時代後期から鎌倉時代を経て室町時代末期に下るにつれ、公的な世界からは女性が徐々に排除されていくが[92][注 49]、しかしその中世の中で女性の地位が最も低下していた戦国時代、1562年に日本に来て35年間日本に住んでいたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスの日本覚書にはこういう記述がある[93]

(ヨーロッパでは)堕落した本性にもとづいて男のほうが妻を離別する。日本ではしばしば妻たちのほうが夫を離別する[注 50]

ヨーロッパでは妻を離別することは罪悪であることはともかく、最大の不名誉である。日本では望みのまま幾人でも離別する。

彼女たちはそれによって名誉も結婚(する資格)も失わない[注 51]

しかしそれも上中層階級においてである。

近世・江戸時代の離婚

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江戸時代より前の庶民(下層階級)には離婚という感覚は無い。そもそも男女が夫婦として同じ家に住み、協力して家業、例えば農耕に励み、子供を育てて家を継がせるという「家」の概念が一般庶民にまでは浸透していなかった[94][95][注 52]。それが名主や豪農ですらない一般の農民・庶民にまで浸透していったのは江戸時代初期の婚姻革命によってであるとされる[96]。江戸時代ほど「本音」と「立前」の落差が激しい時代は無かったと云われるが[97]、結婚・離婚について「立前の世界」が出来たのは江戸時代になって徳川家康儒教を取り入れて以降である。

儒教での女性感は「女三界に家なし」な教訓書『女大学』によくあらわれており、妻が夫を嫌って別れたいなど決して思ってはならないことであった[注 53]。奉行、代官などになる上級武士は儒学で育っている。儒学の女性観が江戸期の婚姻・離婚の幕府法制上の「立前」である。一方で一般には明治以降現在に至るまで、封建制下の女性は男尊女卑な「七去三従」でがんじがらめにされていたと思われている[注 54]。「立前」ではなくそれが「本音」「実態」だったと。しかし高木侃は「明治民法は、それ以前はタテマエにすぎなかった夫権優位を現実に強制した」と全く逆のことを述べる[98][注 55]

江戸時代の離婚は「夫側からの離縁状交付にのみ限定されていた」と良く云われる。それを象徴する学術用語が石井良助の「夫専権離婚」説である[99][100]。石井良助は法制、つまり「立前」としてはそうだったと述べているだけだが、この「夫専権離婚」という言葉が一人歩きし、実態としてもそうだったと思われがちである[注 56]

もうひとつ一般にそう思われがちな理由は、多くの離縁状に離縁理由として書かれる「我等勝手に付」である。夫は勝手に妻を離婚出来たと。そういう誤解がかなり広く浸透している[注 57]

しかしこの「勝手」の意味合いは現在の印象とは少し違い「都合により」ぐらいの意味であることは70年以上前の穂積重遠の段階から指摘されており[101]、その後高木侃が詳細に論証した。それは具体的な理由は書かないのを良しとするという現れであり「妻の無責性」を表すものであると[102][103][104]

退職願に「会社に将来性がないから」とは書かず「一身上の都合により」と書くのと同じである[注 58]

「離縁状は夫が交付する」のはその通りであるが、しかし高木侃は実態としては夫は勝手気儘に妻を離婚出来たという「専権」ではなく、むしろ夫に科せられた「義務」であると強調する[105][注 59]

現在では百科事典でも「当時庶民の間では,離婚は仲人・親類・五人組等の介入・調整による内済(示談)離縁が通例であったと思われるが、形式上妻は夫から離縁状を受理することが必要であった」とされる[106][注 60]

嫁ぎ先の「家」の資産にもよるが、儒教的な道徳や武家社会の慣習が浸透しなかった農民や町人の社会においては、女性の地位はけっして低いものでは無かった。いわゆる水飲み百姓で、資産(田畑)などろくになければ「家」の重みもない。夫婦は対等に近くなる。幕末から明治にかけての日本の庶民の女房を観察した外国人はこう述べている[107]

下級階級では妻は夫と労働を共にするのみならず、夫の相談にもあずかる。妻が夫よりも利口な場合には、一家の財布を握り、一家を牛耳るのは彼女である(チェンバレン)。

彼女らの生活は、上流階級の夫人のそれより充実しており幸せだ。何となれば、彼女ら自身が生活の糧の稼ぎ手であり、家族の収入の重要な部分をもたらしていて、彼女の言い分は通るし、敬意も払われるからだ。・・・夫婦のうちで性格の強いものの方が、性別とは関係なく家を支配する。(ベーコン)。

明治以降昭和初期までの近代においてさえ地方の常民の間では立前はあまり強くは無いことが民俗学の調査で判る[108]。江戸時代には妻の方からは離縁を言い出せなかったのかというとそうではない。最古の離縁状の実物は1696年(元禄9年)のものであるが、夫が1両の趣意金を受け取っていることから、妻方からの要求による離縁である[109][注 61]。どっちの家、家業に入るかということも大きい[110]。婿養子の場合には「三界に家なし」は家付娘である妻ではなくてよそ者の婿殿になる。近年十日町市で1856年(安政3年)の「妻の書いた離縁状」も発見されている[111][注 62]。話がつきさえすれば離婚できた。問題は話がつかなかった場合である。

縁切寺三年勤の背景

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江戸時代の「律令要約」には妻方からの離婚に関して5つの条項がある[112]。そこに共通するものは「三、四年過ぎ」というキーワードであり、例えば「離別状遣わさずといえども、夫の方より三、四年進路致さざるにおいては、たとえ嫁し候とも、先夫の申分立ち難し」である。この判例は「公事方御定書」でも踏襲されている。

江戸時代中期以前に「3年も別居していればもう夫婦ではない」という社会通念が成立していたと言える[注 63]

妻方からの離縁の申し出に話がつかなかった場合の強行手段として「夫の手に負えぬ場所」への「縁切奉公」があった。これを「縁切奉公」と名付けたのは石井良助である[113]。どのような場所かというと代表的には武家屋敷である。尼寺も勿論、普通の寺である場合もある[114][115][116]。関所に駆込んだ例もある[117]。要するに「夫の手に負えぬ」、連れ戻せぬ、少なくとも庶民にとって「権威のある場所」であれば良かった。そこに3年間奉公していれば結婚は時効となる。それが禁止された後でも、夫方を呼び出して「離縁せよ」と云ってくれる。

東慶寺も江戸時代初期にはそうした「夫の手に負えぬ場所」のひとつであった。ただし元禄時代の「盤珪禅師法語」に「女人問、女は業ふかき者にて高野山または比叡山などの貴き山へは結界とて上る事を得ず。師曰、鎌倉に比丘尼寺あり、是は男結界也」[118]とあるように、男子禁制の代表として知られ[68]、かつ会津四十万石改易事件にも見られるように、その「男結界」は大身の大名すらはねのけるほどである。庶民の夫にとっては並みの「手に負えぬ場所」ではない。しかし江戸時代中期に幕府は武家屋敷への駆込みを抑制したらしく、「縁切奉公」先の多くは「駆込は迷惑だから」「風俗よろしからず」と受け付けないことを表明する。年代としては1704年(宝永元年:前橋藩[119][120])から1786年(天明6年:小諸藩[121])頃である。それらは関東近国の親藩・譜代であったが、遠く九州の外様大名である熊本藩でも「縁切奉公」の慣行があり、それが1773年(安永2年)の達しで禁止される[120][注 64]。なお縁切三年奉公と言っても東慶寺では足掛3年満24か月であった。

離縁状

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離縁状、いわゆる三下半。
東慶寺に残るものは駆込女が無事に内済離縁となったときの縁状状の写しである。写しとは云え東慶寺に差出す写しの方に良い紙を使い丁寧に書くことがある。
 
短文の離縁状 今後何処に嫁ごうとも異存は無いと表明していれば文言や行数は問題とならない。2行のものも10行半のものもある。

ここでは「離縁状」に統一するが、「去状(さりじょう)」、「暇状(いとまじょう)」、「隙状(ひまじょう)」、「縁切状」、「手間状」と呼ぶこともある。最古の離縁状の実物は1696年(元禄9年)のものだが[109]、 写しなら1686年(貞享3)のものが福井で見つかっている[122]

幕府の直轄地である京都で1684年に刊行された用文章(実務文例集)『願学文章』にはすでに「離縁状」の雛型が載っている。小田原藩では離縁には証文を必要とするというお触れが1669年(寛文9年)にあった。「向後女房離別いたし候者これあり候はば、自筆にてさり状を遣わすべく候、・・・此以後かようの証文これなく離別いたし候と申し候とも、御立なられまじき由、仰せでられ候、此旨村中へも申し渡し、堅くあい守り申すべく候」と[123][124][125]。この方針は幕府の方針だった可能性もある。この当時の幕府の法令(御触れ)は諸藩に伝えられ、特に親藩・譜代ではおおむね右へならえする。まして小田原藩主稲葉正則はこのとき老中首座で、後には大政参与にまで登った大物である。しかし幕府の方針だったとしても年代を超えて一貫したものではなく、記録も集積されない。それは徳川吉宗による享保の改革の目玉のひとつ、1742年(寛保2年)の公事方御定書を待たなければならない[126]。また離縁状は全国一律に必要とされた訳ではなく、幕末に至るまで必要とされなかった地方がある。主に西国である。

縁切寺への幕府の態度

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江戸時代初期

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「近世・江戸時代の離婚」でふれたように、江戸時代ほど本音と立前の落差が激しい時代は無かったと云われる。例えば妻の不義密通など言語道断であり「公事方御定書」の下巻「御定書百ヶ条」では「死罪」[注 65]。夫が妻と間男を重ねて4つにしても、つまり二人とも殺してもお咎めなしてある。しかし密通がばれてもほとんどは元の鞘に納まるか、あるいは先の「仲人・親類・五人組等の介入・調整による内済離縁」つまり示談による離婚になっている[127][128][注 66]。しかし幕府奉行所のお白州までくるとそこは立前の世界である。江戸時代初期には妻が夫を嫌うこと自体が不届とされて、1662年の判決においては「髪を切ってでも離婚したい」という妻の訴えを退けている。妻が縁切りを求めて東慶寺に駆込むと言う事自体も嫌忌した[129]。1688年(貞享5年)2月14日の東慶寺への妻の駆込に対する幕府の判決に「ふり儀、三之丞(夫)を嫌い、鎌倉松岡東慶寺へ欠(駆)入候段不届」とし、既に東慶寺に入寺しているので、離婚だけは認めるが、「今後縁付き無用」つまり再婚は認めないというものがある[130][129]。このときの在寺期間が足掛3年(卯年より翌々年の巳年9月)であった。縁切寺三年勤と言っても東慶寺では足掛3年満24ヶ月であったが、それはこの前例を踏襲したものと思われる[注 67]。なおこの判決では離縁状の授受は問題にされていない。「公事方御定書」以前であるので、判決にバラツキはあるが徐々に軟化していったらしいことが後の「律令要約」を見るとわかる。

江戸時代中期

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東慶寺が離縁状を取るようになったのは1700年前後であることが寺役人が1745年(延享2)に寺社奉行に提出した寺例書でわかる[131]。読み下しを要約するとこうなる。

以前は離縁証文も差し出させず、当山へ入れ二十四ヶ月相勤めれば縁は切れてきたが、下山した女に元の夫が難渋申しかけ、出入りに及んだので、寺社奉行永井伊賀守に仰せつけられて以来、縁切証文並びに親元の証文を差し置き申す[132]

永井伊賀守とは永井直敬であり、寺社奉行であったのは元禄7年(1694年)から10年間である。趣旨は1669年(寛文9年)の小田原藩のお達しと同じである[注 68]。足掛3年経っても夫が納得せず「出入りに及ぶ(訴え出る)」ことがあったので、そのようなことにならぬように縁切奉公・寺法離縁の場合でも夫から離縁状を取れと、今でいう行政指導が有ったということである[注 69]。この古文書から、東慶寺が離縁状をきちんと取りだした時期と、それ以前から「駆込み」を受け入れていたこと、さらに幕府・寺社奉行がそれを承認していたことがわかる。

1720年頃には江戸町奉行の反感を買うが、これは妻の駆込み後、直ちに飛脚が奉書(後の寺法書)を届け、夫に離縁状を書かせようとしたことが反感を招いたという[129][注 70]。1721年(享保6年)の事例では、東慶寺から夫方に来た最初の通知は出役達書ではなく離縁状を書けという奉書であった。それが菊桐御紋の御用箱で突然来る。思いあまった夫方が町奉行にお伺いをたてたら「東慶寺には適当に返事をしておけ、妻が東慶寺を出たら捕らえて報告しろ」と命じた[133]。その当時の奉書は、1727年(享保12年)の奉書を引用した文書からわかるが、後の寺法書より短く単刀直入である[134]。それが変わったのは1731年(享保17年)である。同様のケースで「松ヶ岡へ欠込候上は、寺法之事ニ候間、離縁差遣すべき旨仰せ」つけている[135]。名主側の心得書(マニュアル)にも、万一菊桐御紋の文箱が届いたら、箱を開けずに神棚に飾って、即座に夫に離縁状を書かせるべしと書いてある例がある[136][137]。相手が松岡御所では勝ち目は無いし厄介ごとが長引くと大変だという訳だが、もうひとつは、この頃封を切らずに夫が離縁状を差し出せば駆込女の在寺期間は24ヶ月の半分12ヶ月になったことによる。これは1793年(寛政5年)の「被官え申渡十七ヶ条」の6条にある[138]

律令要約」に「夫を嫌い、家出いたし、比丘尼寺へ欠(駆)入り、比丘尼寺へ三年勤め、暇出で候旨訴うるにおいては、親元へ引き取らす」と書かれたのは1741年(寛保元年)である。1688年(貞享5年)の幕府の判決にあったような「妻の再婚は認めない」という部分が無くなっている。1762年(宝暦12)には「縁切寺は東慶寺と満徳寺に限る」との寺社奉行所の発言が前橋藩に記録される。

右二ヶ寺(東慶寺と満徳寺)公儀より仰せ出されはこれなく候えども、古来より寺法右の通りにてこれあり候間、縁切せ然るへき由、尤も都(すべ)て尼寺右の通りにて申す訳にてはこれなく候[139][140]

これは満徳寺へ駆込んだ妻の三年勤めの後に離縁状を請求したが夫が承服せず、満徳寺は寺社奉行へ訴え、寺社奉行が前橋藩へ夫に離縁状を書かせろと指示した一件である。このとき前橋藩の郡代は「御公領と御私領とハ訳も違可申」、離婚は「夫之意ニより」、「左様ニ(縁切寺法のように)婦人之方理合強キ様ニては不相済」と反発している。それに対して前橋藩の江戸藩邸はこれを断ると幕府の評定所で審議されて「寺法之通」りに裁決されるはずだから断れないと国元に伝える[141][注 71]

江戸時代後期

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更に後の時代には、あわや縁切寺法の断絶かという場面が幕府の一喝で救われたということもあった。先にも触れたが 1801年(享和元年)に蔭涼軒主耽源尼が寺の御朱印を円覚寺に預けて隠居し実家へ戻ってしまう。東慶寺を預けられてしまった円覚寺は、当分の間、東慶寺の縁切寺法を中止すると決めてしまった。このとき寺社奉行の松平周防守浜田藩主)が円覚寺の僧を呼び出して役人に叱責させた記録が円覚寺に残る。そこには「欠入(駆込)寺東慶寺に限り候に、それ(駆込)を断り候はば、円覚寺より日本中へ触差出候様可然」と[142]。この「ならば日本中に駆込中止の触れを出せ」との叱責に慌てた円覚寺は縁切寺法の継続させることにしたという一件である。また、東慶寺の縁切寺法に従わない、寺法離縁状を書かない強情夫を寺社奉行が呼び出して仮牢で脅すというようなバックアップも行っている[143]
東慶寺と満徳寺以外については問い合わせがあればこれを禁じている。しかし記録に残るその問い合わせは1825年(文政8年)、1846年(弘化3年)、もう一件は文化文政(1804年~1829年)の頃と推測されている。1762年(宝暦12)の寺社奉行所の発言は全国の領主および寺院に周知された訳ではない。尼寺に限らず多くの寺院が駆込があれば受け入れており、その地の領主・役人も話がこじれない限り受容していたということでもある[144]

ところで先に「東慶寺と満徳寺以外については問い合わせがあればこれを禁じている」と書いたがそれはおおよそであり、満徳寺の場合は常に認められていた訳でもない。先に触れたが1801年(享和元年)に寺社奉行所の寺社役は円覚寺に「欠入寺東慶寺に限り候に」と述べているし、1843年(天保14年)に幕府岩鼻代官所は離縁がこじれて双方の掛け合いがうまくいかなければ、奉行所に出訴すべきであり、満徳寺がこれに関与する必要は無いと満徳寺を無視している[145][146]。先に1731年(享保17年)から江戸町奉行の態度が変わったと記したが、これにも多少のブレはある。1845年(弘化2年)に町奉行所は満徳寺に駆け込んだ妻「さよ」を差し出させようとし、満徳寺は寺社奉行に訴えたが町奉行所に差し出すように言われている。結局「さよ」は町奉行所の威圧に屈して帰縁した[147][注 72]。「公事方御定書」以降であっても幕府の態度は常に一貫したものではなく、寺社奉行・町奉行・代官所の間でもバラツキはある。

東慶寺の寺法手続き

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以下はあくまで江戸時代後期1808年(文化5年)に水戸藩の姫法秀尼が院代がとなってから寺法書式集などを含めて手続きが整備されて後の話である[148][149]。この時期は東慶寺でも、もうひとつの縁切寺である満徳寺でも、ほとんどは「内済離縁」である。事例は様々で、夫が反省して復縁した例、夫が嫌いな訳ではないけど姑に堪え切れず[注 73]、などというのもある。

身元調べ・女実親呼出

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女実親呼出状  差出人である松ヶ岡御所役所を上に大きく、宛名である名主は下に小さな字で書いている。

駆込みがあると即座に入寺させるのではなく、御用宿(東慶寺では三件あった)へ預る。この御用宿は単なる宿泊施設ではなく、「身元調べ」を代行し、後から来た夫方との和解、あるいは内済離縁の調停をすることもあり、宿兼東慶寺に対する司法書士、相手方との示談仲介という点では弁護士のような役割も果たした[150][151]。寺役人によってか、あるいは御用宿かでまず「身元調べ」を行い、次いで「女実親呼出」となる。この呼出状は妻の実家方の名主に届けられる[152][153]。出頭した親に対し娘に復縁を勧めさせる。どうしても別れたいとなれば、親に夫方と掛け合って内済離縁(示談)にするよう伝える[154]。「女実親呼出」を受けた駆込女の実家が、東慶寺へ来る前に夫と交渉して離縁状をとって「内済離縁(示談)」を済ませてしまうこともある。実は飛脚がそれを薦める[155]。離婚に不承知だった夫も、東慶寺に駆込まれたとなれば勝ち目はないと諦めることが多い。

出役達書

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出役達書  包みの表書きは呼出状と同じである。

駆込女の実家による「内済離縁(示談)」が不成功である場合、それ以降が満徳寺と大きく違う。東慶寺では寺役人を夫方名主宅に出張させるが、その前に飛脚が「出役達書」(でやくたっしがき)を夫方名主へ届ける[注 74]。内容は「誰々妻の駆込みの件で、松岡御所の役人が何日に行くので、夫ともども家にいるように」というお達しである。今風に言えばただのアポ取りだがその差出人は松岡御所の役所である。「出役達書」で厄介事に巻き込まれた夫方名主も必死で内済離縁の仲介をする。この効果は絶大でほとんどはこの段階で内済離縁が成立する[注 75]。半強制だが形式上は内済離縁(示談)であるので駆込女は寺に入ることなく、御用宿から実家に帰れることが出来た[156][157]

出役・寺法離縁

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御用箱  御用箱で現存するものは木地のままの様にも見えるが拭漆であり、拭漆は擦れて薄くなると重ね塗りする。使用されていた頃には光沢があったはずで、この菊桐御紋で名主や夫を威圧する。町奉行側の記録には中は黒塗(黒漆)であったと記されている。
 
寺法書(拘置御奉書)は「折り紙」[注 76] に書かれている。「折り紙付」とはこの様式からくる。

「出役達書」が来ても離縁状を書かないと、本当に「出役」となる。これ以降が「寺法離縁」である[158][159]。東慶寺の寺役人が「寺法書」を持って夫方名主宅へ出向き「寺法書」を名主に渡す。名主は夫にそれを読み聞かせる。「寺法書」は「拘置御奉書」とも云い[注 77]、内容は本質的には「慈悲の寺法、古来より御免の寺法により駆込女を拘え置く。だからもうお前の妻ではない。解ったら離縁状を書け」ということを松岡一老(院代)言葉として侍者が書いた奉書である。中期も後期も変わらない。 ただし言い方がだいぶ変わる。文の構成は次ぎのような4点からなる。

  • これこれの女が駆け込んだが、お前の妻に間違いはないか。
  • 苦労の多い寺法勤めは不憫であるので立ち帰るよう説得したがどうしても別れたいというので、しかたなく(寺に置くことを)お前に知らせる。
  • もしもお前の妻が公儀の法に触れる者なら(あるいは異存があるなら) "証拠を揃えて、名主、五人組共々寺役所へ来い"。
  • 以後差障無き書付(寺法離縁状のこと)を差し出せば来なくても良い。そうすれば "余多(いくた)の難儀" が降りかからないようにしよう[注 78]

以前の様な町奉行所の反感を受けないように、問答無用で「離縁状を書け」というような命令調ではなく、表向きは駆込んだ女房は東慶寺が預かるという通知で、女文字で言い方も柔らかくはなっている。しかし十分脅している。寺役人が出向くということは「足掛け三年は寺から出さない、もうお前の妻ではない」というである。それでも離縁状を書かないと寺役人は暫く逗留し、その費用は夫負担である。「寺法書」は夫が書いた「寺法離縁状」とともに返すのが決まりだから、夫がそれを書かない限り名主宅におかれる[160]。名主にとっては頭痛の種である。夫が町奉行所や代官所へ訴えてもこの頃は「それが寺法だから従え」と云われる。 更に粘ると寺社奉行吟味となり、奉行所は威圧しつつ「御理解」、つまり内済を薦め、強情な夫には「仮入牢」で脅す[161][162][注 79]

幕府寺社奉行を頼れるところが東慶寺・満徳寺とその他の「夫の手に負えぬ場所」の最大の違いであるが、東慶寺が寺社奉行を頼るのは最後の最後である。極力御所寺の威光で夫方を屈服させようというのが完成期の東慶寺の寺法である。

満徳寺と違うところは、すぐには寺社奉行を頼らないことと、「出役」以降は、夫が離縁状を書いてもそれは鎌倉松岡御所様お役所、つまり東慶寺宛であって駆込女房には渡されず、足掛3年満24ヶ月は妻は入寺することである。24ヶ月後にやっと駆込女房は離縁状を手にして誰と結婚してもよいことになる。一方、夫は離縁状を書きさえすればすぐに誰と再婚してもよい。

寺法離縁状

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以下に画像と、それとは別の東慶寺に残る中で最古の寺法離縁状をあげる。1738年(元文3年)のものである[163]。□は虫食い等で不明な部分である。個々に若干の文言の違いはあるが、概ね同一の書式に従う。寺法離縁の場合は書かなければならないことが多いので三行半には収まらない。

 
寺法離縁状 夫だけでなく名主も署名し、宛先は鎌倉松岡御所様御役所となっている。

     差上候証文之事
一 私妻ゆつ御門内え欠入申候ニ付御届之
  御書壱通被下置、慥(たしか)に請取委細承知
  仕候。尤古来より御寺法之儀御座候ニ付
  以後共此女ニ付何方え縁組仕候とも
  □差構無御座候 為後日証文差上ケ□
  如件
      元文三年三月卄七日   笠間村
   鎌倉松ヶ岡          当人 十兵衛(印)
      御所様           組合 (四人略)
       御役所         名主 市左衛門(印)

上記のように東慶寺の寺法離縁の場合は、夫の書く離縁状は東慶寺宛であるので、24ヶ月後に女房が貰うのはその東慶寺宛離縁状の写しに寺役人が「このとおり間違いはない」と添書をしたものである。東慶寺に残るものは寺法離縁状の本物証文で、書写添書をしたものは残らない。離婚妻に渡されるからである。上記とは別の離縁状だが、離婚妻に渡された書写添書の離縁状が一通発見されている。添え書きは以下の通りである[164]

右本文之通り六右衛門□差出候、本書先例之通り
当山江取置、写書相渡し申候、以上
                   当寺役人
                     幸田弥八郎(印)

この古文書は1856年(安政3年)の「信州の駆込み女てる」の事例 であり[165]、東慶寺宛の離縁状の書写添書を離婚妻に渡すことが先例であったことを初めて明らかにしたものである[166]。「てる」の実家は信州筑摩郡堀之内村の名主を何代にもわたって勤めた高70~80石の豪農である。「てる」の夫は記録に残る限りでは「妻の実家の金だけが目当ての性悪な夫」であり、この夫婦は江戸に出ていて、そこから東慶寺に駆込んだ。この一件は東慶寺側と女の実家側の双方に残り、事件のほぼ全容が明らかになっている[167][注 80]。 この夫婦の江戸の住まいは夏目漱石の父、馬場下横町の名主小兵衛配下の友七店である。夫は「古来御免の寺法」に従わず、寺社奉行に召し出されるという難事件であった。「てる」は24ヶ月の縁切奉公のあと実家に戻り、その後東慶寺に鑿子(きんす)を寄進している[168]

駆込みの集計

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慶応2年の日記帳。関東大震災以前には日記数十冊が確認されているが現在残るのはこの年のみ。

駆け込み件数は495件(文書993点)であり、内東慶寺に残るものは約400件(文書690点)であるが、実際の件数はその数倍と思われている[注 81]。かつ現在残る記録は断片的な記録が多く、どのような事情でと判るものはごく一部しかない。ただし東慶寺に残る記録を分類集計するだけでも全体の傾向は見てとれる。

何処から駆込んだかを見ると、圧倒的に多いのは江戸で140件、江戸以外の武蔵国では多摩郡45件、当時武蔵国で現在神奈川県の橘樹郡27件、久良岐郡21件、現在神奈川県の相模国では鎌倉郡38件、三浦郡45件、高座郡55件、その他現千葉県北半分の下総国14件である[169]。最も遠いとされる信州の1件は、駆込女の実家が信州ということであって、実際に駆込んだのは江戸からであり江戸にカウントした。どこからの駆込みでも受け入れたが実際には現在の東京都、神奈川県、千葉県の範囲である。距離と人口が関係しているのか、東慶寺のある相模国でもほとんどは東部であり西部からは少ない。小田原藩領内からは一人もいない。遠方では常陸国 2件、上野国甲斐国駿河国各1件があるが、この内常陸からの女はあてもなく逃げてきたところ、鎌倉に縁切寺があると聞いて駆込んだという[170]。上野国は近くに満徳寺があるにもかかわらず東慶寺に駆込んでいる。江戸では東慶寺がある程度知られていたということはあっても、その他の地方では東慶寺も満徳寺もほとんど知られていなかったということである。

駆込女の年齢は平均29歳(最低20歳、最高54歳)で、裁決の日数は平均して11日である[171][172]。年次が明らかで、かつ寺法離縁か内済離縁か判明するもの[173]を集計すると以下のようになる。

  • 最初の記録の1711年(宝永8年)から1807年(文化4年)までの約100年間は寺法離縁5件に対し内済離縁1件である。この時期の史料はあまり残っていないということであるが、比率だけは参考になる。
  • それが院代法秀尼時代に入った1808年(文化5年)から1830年(文政13年)の23年は寺法離縁7件に対し内済離縁7件と半々。
  • 寺法手続きが整備された文化文政の後、1831年(天保2年)から1870年(明治2年)の30年では寺法離縁4件に対し内済離縁123件とほとんど内済離縁となる。

この内1866年(慶応2年)だけは2冊の日記帳が残るが、その一年間の離縁を求めた駆込は38件(それ以外も含めると47件)で、結果は内済離縁25件、寺法入寺2件、他は不受理1件、下げ4件、取下げ1件、帰縁1件、不明4件である[174][注 82]。上記の寺法手続きは極力内済離縁で済ませるための仕組みとも云える。

出入三年満二十四ヶ月の縁切奉公

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下が前欠の在寺中規定書。守るべき事柄の箇条書きの後に駆込女が署名している。複数の署名があることから、毎回この文書に追記署名したものと思われている。

駆込女は寺に入ると言っても出家して尼になるということではない。24ヶ月後には寺を出て誰とでも結婚できる。ここがよく誤解されると先々代住職の井上禅定が書いている[175]。1821年(文政4年)の在寺中規定書(右画像)には「髪切候事」というのはあるが形式的にちょこっと切るぐらいと思われている[176]。もうひとつの縁切寺群馬県満徳寺へ駆込む女の絵があるが、その絵でも寺の中に居る駆込女は長髪のままである。頭を剃る訳ではない。東慶寺の寺法に「頭を剃る」というケースがひとつだけある。「円覚寺被官」の項で触れた被官に申渡した十七ヶ条の中の第七条に、三年勤め中の女が脱走し捕まった場合には「頭を剃って丸坊主にし、素っ裸にして追い払う」とある[177][178]。ただし本当に実行されたのかは不明である。少なくともその実例は今に残る古文書には記録されていない[注 83]。駆込三年勤めの女はタダで実24ヶ月暮せた訳ではない。駆込女の三格式というのがある[172]

  1. 上臈衆格は御仏殿に花をあげたり、来客があれば挨拶に出るとか、院代の側近くに仕える。あまり働かない。
  2. 御茶の間格は座敷とか方丈の掃除、食事の調味、来客のときはお給仕をするなどである。床とか畳の上で働いている。
  3. 御半下格はご飯を炊いたり洗濯をしたり、庭の草取りもするいわば下女である。土間とか庭で働いている。

冥加金によりそれが決まり、1838年(天保9年)の記録では上臈衆格は15両、御茶の間格は8両、御半下格は4両で、その他扶持料が月に2分2朱、24ヶ月で15両になる[179]。これは上臈衆格と思われるが、少なくとも上臈衆格は24ヶ月で合計で30両を収めることになる。大店の商家の娘、豪農の娘なら実家も支払うことができるが一般庶民にとっては手の届かない額である[注 84]。扶持料が三格式のどれにも課せられたかどうかについては史料が無いが、仮に冥加金と扶持料24ヶ月分の比率を御半下格に当てはめると合計8両となる[注 85]

寺入りした女はいろいろな定めに従って生活したが、ことに男子禁制については厳しく規定されていた。基本的には寺外に出ることは出来ず、止むを得ない用事の際でも名札を持った上で尼僧がつきそう。実の家族(ことに男性)が面会に来ても制約付での面会になった。重病の場合のみは寺外で養生できたが(男である医師は寺に入れないため)、寺外で養生していた期間は寺入りの期間には参入されない。上で述べたような仕事に加えて、経の簡単なものであるが読経もしなければならなかった[180]

境内

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2014年現在の東慶寺境内を概説する。

  • 鐘楼
 
鐘楼
山門を潜って左側に茅葺屋根の鐘楼がある。現在の鐘楼は大正5年のもの。関東大震災で唯一倒れなかった建物である。梁に大震災のとき梵鐘が揺れてめり込んだ跡が残る。東慶寺には鎌倉時代末期に造られた梵鐘があったが今はここになく、静岡県韮山の本立寺にある。現在の梵鐘は南北朝時代の1350年に鋳造されたもので神奈川県重要文化財に指定されている。「就相陽城之海浜有富多楽之寺院」「観応元年」と刻印されており、材木座の補陀落寺のものであったことが判る[181]。それが何故ここにあるかだが「玉舟和尚鎌倉記」や、水戸光圀が編纂させた「新編鎌倉志」には、東慶寺の寺領であった二階堂永安寺跡より農民が掘り出したという[182][183]。同様の記述は「新編相模国風土記稿」にもある[184]。永安寺(ようあんじ:廃寺)は瑞泉寺門前右側の谷戸にあった足利氏満の菩提寺であり、足利持氏永享の乱のときこの寺に幽閉され、更に攻められて自害し寺は焼けたと伝える。それらの事から足利氏満が没した1398年(応永5年)12月以降、菩提寺として建てられた永安寺に補陀落寺から移されたと推測されるが定かではない。
  • 書院
 
書院
山門を潜り、鐘楼を通り過ぎた右側に書院の中門があり、その中の大きな建物が書院である。以前は1634年(寛永11年)の徳川忠長屋敷から移築された建物であったが、関東大震災で倒壊する。倒壊直後の写真では屋根は茅葺であったが[185]、他の国宝・重文建造物の例から移築当初は檜皮葺であった可能性がある。現在の書院は二階堂の山林を売った資金で、以前とほぼ同じ間取りで大正末に再建されたものである[186][187]。広さは60余坪。以下中世の建築用語を用いるが[188]、玄関を上がった「中門廊」は2つの出入り口を持ち、その先北側に「公卿の間」がある[注 86]。その西側、「広庇」(縁)沿いに「次ぎの間」「上座の間」が繋がる。上座の間の天井は今は十六菊花紋の格子天井であり、以前は菊・桐の紋であったという[186]。その「上座の間」に向かって左側にお殿様(徳川忠長)が太刀持ちの小姓を従えて座っていてもおかしくない「上段の間」がある。「広庇」に相当する南側と西側の廊下は、倒壊前は雨戸だったというが[186]、今は僅かに波打つ大正ガラスのガラス戸が入っている。書院から本堂、更に水月堂へと渡り廊下で繋がっている。東慶寺では様々な文化的イベントを行っているが、講演会はこの書院を用いることが多い。
  • 本堂
 
本堂と左に水月堂。
書院の門の先の同じ右側の中門の奥が本堂である。明治時代の東慶寺には1634年(寛永11年)に千姫が寄進した仏殿が現在の菖蒲畑の奥の板碑のあたりに残っていたが、明治維新で寺領を失い修理も出来ずに荒れ果て、雨の日には「本堂の雨漏りがひどくて、傘をさしてお経を読んだ」という状態であった[189]。その仏殿は1907年(明治40年)に三溪園に移築されたが、西和夫は「おそらく仏殿は維持が難しかったのであろう」と推察する[190]。その頃、中門(現在の山門)の石段の右に聖観音菩薩像を安置していた観音堂・泰平殿があり、後にこれを現在の白蓮舎の前、菖蒲畑のあたりに移築して本堂とする[191]。しかしこれも1923年(大正12年)の関東大震災で倒壊する[192]。このとき本尊両立の文殊・普賢も消失している。現在の本堂はその後、1935年(昭和10年)に建てられたものである。本尊は釈迦如来座像。寄木造の玉眼入りで、仏頭内側に墨書修理銘がある。それによって1515(永正12年)に火災があり、かろうじてこの本尊を取出したもののほとんど焼失したらしいことが判った。
  • 水月堂
本堂にほぼ接した左側が水月堂である。元は加賀前田家の持仏堂であったが、1959年(昭和34年)にこちらに移築し、水月観音菩薩半跏像を安置する[192]。水月堂とはその水月観音菩薩像からである。この水月堂が出来るまでは水月観音菩薩像は鶴岡八幡宮境内の鎌倉国宝館に寄託されていた。この持仏堂の仏壇は元々丸窓であったが、水月観音の大きさにちょうどピッタリであった[193]。水月堂の前には作家の田村俊子湯浅芳子の仲間であった山原鶴(号宗雲)の茶室松寿庵があり、本堂前から扁額が見える[194]
  • 寒雲亭(茶室)
 
寒雲亭(茶室)
書院と本堂の向かいに茶室・寒雲亭がある。寒雲亭は千宗旦の遺構で、最初のものは1648年に造られ、裏千家で最も古いお茶室とされる。ただし1788年(天明8年)正月に京都で大火があり、伝来の道具や扁額、襖[注 87]は持ち出すことができたが、茶室は隣合わせだった表千家・裏千家共にすべて焼失している。従って現在残るものは1788年から翌年にかけて同じ間取りで再建されたものである。東慶寺の寒雲亭は明治時代に京都の裏千家から東京の久松家(元伊予松山藩久松松平家)に移築され[注 88]、その後、鎌倉材木座の堀越家を経て1960年(昭和35年)に東慶寺に寄進・移築されたものである[195][注 89]。千宗旦の「寒雲 元伯七十七歳」の扁額がある[195]。垣根の外から見える外壁に「寒雲」の扁額が見えるがそれとは別のものである。1994年(平成6年)に改修工事を行った[195]。京都の裏千家今日庵にも寒雲亭が再建されている。
普通にお茶室というと「にじり口」から入る広くて4畳半、狭いと2畳に床の間という「小間」のイメージだが[196][注 90]、こちらは「広間」という八畳の茶室で[注 91]、露地に面して貴人口(きにんぐち)があり[注 92]、 書院造りである。ただし床の間と付書院を分けて格式を和らげている。下座床で[注 93]、寒い時期に切る炉は向切である[注 94]。天井は真行草の三段構えで貴人席の上が竿縁天井、その向いが平天井、縁側の下座が船底天井と3種類に分かれている。現在では観音縁日(毎月18日)の月釜、の他、様々な茶会や体験教室などに使われている。[197]
  • 白蓮舎(立礼茶室)
 
白蓮舎(立礼茶室)
本堂の門前の先に青銅の金仏があり、道はそこから若干右方向に曲がるが、その金仏の左正面が茶室・寒雲亭の中門である。その門の手前を右へ行くと菖蒲畑の左側に見えるのが立礼の茶室白蓮舎である。普通にお茶室というと和室に正座で作法が大変というイメージだが、こちらのお茶室は立礼席(りゅうれいせき)と言って敷き瓦を敷いた土間に椅子にテーブルでかなりの広さがある。立礼席は明治5年に裏千家11代玄々斎が外人を意識して考案したものでその後多くの流派に広がった。立礼席は各流派の門人の為のお茶会でない限り、一般には作法をさほど気にしないでも済む略式ととらえられている。[198]
  • 松ヶ岡宝蔵
 
松ヶ岡宝蔵
かつてはこの場所に方丈があったという。1978年(昭和53年)に鉄筋コンクリートの土蔵様式で新築された[195]木造聖観音立像(重文)は受付の先、階段下のスペースの壁面に安置されている。その上にはかつて蔭涼軒主徹宗尼が伯母である21世住持永山尼の十三回忌に建立し、聖観音立像を安置した泰平殿の扁額が架かっている。その対面の壁上部には釈宗演の跡を継いだ佐藤禅忠が、釈宗演の大患全癒紀念にと1916年(大正5年)に書いた鐘楼天井の龍の絵の下図が架かっている。その脇の階段を上がると展示室であるが現在は閉鎖中である。

庭園の四季

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春(2~4月)

東慶寺は梅で有名だが、その梅が終わると山門を潜ってすぐ右側、鐘楼の向かいの彼岸桜が咲く。浄智寺のタチヒガンよりも少し早い。それが終わると本堂中庭の枝垂桜、それより僅かに遅れて本堂の門と寒雲亭の門にはさまれた枝垂桜。更に遅れて山門左のウコン桜・書院の八重桜が咲く。

梅雨(5~6月)

アジサイの季節は黒姫アジサイに始まり、額アジサイ、柏葉アジサイその他が続くが、同時に白蓮舎前の花菖蒲の他、宝蔵から墓地に向かう右側壁面一杯にイワタバコが咲く。イワタバコそのものは鎌倉では珍しくは無いが岩肌一面にというのは例を見ない。イワタバコとほぼ同時に本堂裏にはイワガラミがこれも壁面一杯に咲く[199][200]

秋(10~12月)

宝蔵前の秋桜がピークを迎える9月から杜鵑がちらほら咲き出すが、群生となるのは10月である。その次ぎに竜胆の花が地面を這い、そして紅葉が始まる。山門前の紅葉を最初に本堂中庭、それより遅れて奥の墓地の紅葉が始まる。

墓地

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東慶寺住持の墓所
歴代住持の墓

歴代住持の墓はイワタバコの岩壁の直ぐ先の石段の上にある。石段は新しいものと、すり減った古い石段の2つがあるが、新しい石段の上が皇女用堂尼の墓であり、柵で囲われ宮内庁が管理している。墓はやぐらの中にある(画像:奥の右側の穴)。古い石段を登ると正面が天秀尼の墓で一番大きな無縫塔である。右には用堂尼の矢倉と並んで開山・覚山尼の矢倉がある(画像:奥の左側の穴)。ただし覚山尼は円覚寺の仏日庵の夫時宗の傍に葬られたのでここは供養塔である。天秀尼の無縫塔の左には前述の台月院の宝篋印塔があり、その更に左には21世永山尼の無縫塔がある(画像:中央列左側)。尼寺住持の墓はそれだけである。画像の右列に並ぶ無縫塔は蔭涼軒院代など塔頭庵主の墓で、一番端(画像:右手前)が最後の院代順荘尼の墓である。この順荘尼が明治35年に亡くなって以降男僧の寺となった。釈宗演以降の男僧の墓は天秀尼、永山尼の無縫塔の後方(画像:左上段)にある。

著名人の墓

当寺は文化人の墓が多いことでも有名で、檀家の墓地には鈴木大拙のほか、西田幾多郎岩波茂雄和辻哲郎安倍能成小林秀雄高木惣吉田村俊子真杉静枝高見順三枝博音三上次男東畑精一谷川徹三野上弥生子前田青邨[注 95]川田順レジナルド・ブライスらの墓がある。また、前田青邨の筆塚、旧制第一高等学校を記念する向陵塚がある。

文化財

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国指定

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重要文化財

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  • 木造聖観音立像 - 彫刻 - 指定年月日:1900年(明治33年)4月7日指定[201][202]
 
聖観音立像 元は鎌倉尼五山第一位太平寺の本尊とされる。土紋装飾が施されている。
もともとは鎌倉市西御門にあった太平寺鎌倉尼五山の第一位、廃寺)の本尊であったとされる[注 96]。宝髪を結い上げた菩薩ながら、裙(くん)[注 97]・偏衫(へんざん)[注 98]・大衣(だいえ)[注 99]を着用した如来形である。如来衣を着用する観音菩薩は非常に少なく、いずれも宋風の彫像である[203]。太平寺でこの像を安置していたと思われる仏殿は円覚寺に移築され舎利殿(国宝)となっている[204][205][206]
後世補われた光背と台座以外は剥落、褪色のため造像当初の色彩は失われている。宋風の仏像装飾は肉身には金泥塗、衣文は金泥地に金箔の截金文であり[207]、この聖観音立像も土紋装飾、盛り上げ装飾に上に金泥、更に金箔の截金(切金とも)も併せ用いた豪華絢爛な贅を尽くした像である[208]。土紋装飾とは彫刻面の上に布貼し錆漆を塗り、その上に粘土に漆を加えて固めに練ったものを雌型に詰めて作った落雁の様なものを、まだ柔らかいうちに漆で貼り付けるもので、南宋風の装飾技法である。鎌倉時代後期から南北朝、室町時代初期までの鎌倉周辺にしか見られない[209][210][211]
土紋装飾は大衣の部分にあるが、大衣一面にある訳ではない。袈裟は元々は糞掃衣(ふんぞうえ、ぼろ布・端切れを寄せ集め、継ぎ合わせて作った衣)に由来し、その名残で布の継合せを表す田んぼとあぜ道のような部分(田相部、条葉部)がある。土紋はその条葉部の蓮華唐草文として施されている。およそ2.5cmぐらいで、型抜きをし、花文や葉文などのスジはヘラで陰刻して仕上げ[注 100]、その上を白色層が下地として覆い、その上を金泥などの金色層が覆う[212][213]
田相部には、かなり剥げ落ちてはいるが、截金(きりかね・切金)といって金泥の上に金箔を細く切って貼り付けることで文様をつける[214][215][216]。花文や葉文を結びつける蔓は盛り上げ装飾で、朱と白色顔料を混ぜた顔料を盛り上げている[注 101]。土紋装飾の代表的な仏像に胎内銘文により1299年造と判明している浄光明寺の阿弥陀如来坐像があるが、土紋、截金ともにその像と同じ形式である。ただし若干簡略である[217][218]
制作年代は鎌倉時代後期から南北朝時代の頃(14世紀)とされる。最も古く見ているのは「神奈川県文化財図録・彫刻編」で、1299年(正安2年)頃の浄光明寺の阿弥陀三尊脇侍菩薩像より後。 鎌倉時代でも14世紀の1300~1333年とする。それに対し山田康弘は、鎌倉期の素朴で重厚な表現とは異なり人間味豊かな表現や彫技に神経を使っている点などから、14世紀でも南北朝時代。渋江二郎も室町時代の彫刻の趣きが若干現れ初めているとしている[219]三山進川崎市能満寺にある1390年(明徳元年)の虚空蔵菩薩像よりも前。ただし14世紀でも鎌倉時代まで遡らせるのは危険。太平寺の本尊であったことを考慮に入れると、太平寺が鎌倉公方家の寺となったのは、足利基氏の妻・清渓尼からであるので、基氏が死んだ1367年(貞治6年)から「空華日工集」に太平寺長老(清渓尼)が出てくる1371年(応安4年)の間に像立という説を出している[220]。常設で宝蔵に安置されている。
  • 初音蒔絵火取母 - 工芸品 - 指定年月日:1960年〈昭和35年〉6月9日指定[221][222]
 
初音蒔絵火取母
室町時代作の香炉。「火取母(ひとりも)」は香炉の一種。平安時代の香炉は金属製の薫炉とそれを納める火取母、そして火取母の上に被せる金属製の薫籠(くんこ)からなる。江戸時代には火取母の中に金属製の落としを入れただけの簡略香炉が多くなるが、これは薫炉、薫籠が備わっており平安時代以来の香炉の形をきちんと伝えている。この香炉は衣類に香をたき染めるために使用したもので、この香炉の周りに伏籠(ふせご)という木の枠を置き、そこに衣類を被せて香を炊き込めていた[223]。「初音」とは源氏物語の巻名である。「初音の巻」の「年月を松に曳かれてふる人に今日鴬の初音聞かせよ」を歌絵とり入れ、火取母の蒔絵の図柄の中に「はつね」「きか」「せよ」の文字を松梅の間に配している。本作品をはじめ東慶寺に伝わる蒔絵遺品は高台寺蒔絵に対して、東慶寺伝来蒔絵を略し東慶寺蒔絵ともいわれる。豊臣秀頼娘天秀尼の所持とも伝えるがそれぞれの由来は不明である[注 102]
  • 葡萄蒔絵螺鈿聖餅箱 - 工芸品 - 指定年月日:1976年〈昭和51年〉6月5日[224][225]
「南蛮漆芸」の遺品。「聖餅箱(せいへいばこ)」はキリスト教のミサで用いる道具で、キリスト教関連の器物も禁教令の出る1613年(慶長18年)以前にはポルトガルの商人を通じたヨーロッパからの注文で大量に作られていた[226][注 103]。ただしこれがなぜ仏教寺院である東慶寺に伝わったかは定かでない[注 104]。キリスト教のミサの道具と認識されたのは1936年(昭和11年)に漆工研究家の吉野富雄がこれを見つけたときからである[227]。今日本にある「南蛮漆芸」は一度海外に輸出した漆芸品が近年戻ってきたものがほとんどであるが、この聖餅箱は日本からは出ずにずっと東慶寺に残っていたという非常に珍しいケースとされる。
  • 東慶寺文書 附 文箱1合、鏧子1口 (東慶寺文書777通[228]、20冊)- 古文書 - 指定年月日:2001年〈平成13年〉6月22日指定[229]
 
院代蔭涼軒の寺法集と寺役人所持の写
本文書は、永徳3年(1383年)12月20日付の足利氏満寄進状から、明治3年(1879年)12月29日付の「たよ内済離縁引取状」までを収める[230]。本文書は、寺史・寺法関係と縁切関係とに大別される[229]。古いものでは、足利成氏書状、足利政氏印判状などがある。同寺は1515年(永正12年)に火災があり、それ以前の文書はほとんど無いが、17世旭山尼の頃からの文書は良く残っている。中には旭山尼の姉青岳尼が住持であった尼五山第一位太平寺の廃寺を伝える後北条氏北条氏綱の手紙や、聖観音立像を取り返してきた蔭凉軒要山尼への感謝とねぎらいの手紙などもある。江戸時代については千姫侍女書状十通の他、縁切関係では1866年(慶応2年)の2冊の日記帳に駆入りの月日、親元、夫方、媒人等の呼出、到着、役所での取調べ、落着引取までの始末が記録されており、研究上の重要な史料である。
1905年(明治38年)の東京帝国大学史料編纂掛(現東大史料編纂所)の調査では1690年(元禄3年)以来の日記数十冊、1733年(享保18年)を始め十数冊の駆入書留他大量の古文書の存在が確認されていたが[231][232]、関東大震災やあるいは敗戦の混乱時に失われ、現在かろうじて東慶寺に残るものが重要文化財となった[注 105]。ただし虫食いその他で相当傷んでいるものもあり、東慶寺では2013年時点でその修復を計画し、基金を募っている。

神奈川県指定有形文化財

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彫刻

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水月堂に安置する。日本での一般的な仏像とは異なり岩にもたれてくつろいだ姿勢をとる。南宋風の、水墨画から抜け出てきたような自由な姿態の像である。こうしたくつろいだ観音像は中国では宋から元の時代に大流行した。 観音菩薩は補陀洛山(ふだらくせん)に住むと云われるが、中国で山というと仙人の住むところであり、観音菩薩と仙人のイメージが重なって、仙人特有のポーズで観音菩薩が表現されるようになったと考えられている。聖観音立像の土紋装飾と同様にこうした姿態の像は京都には残らず、鎌倉時代後半の鎌倉周辺にしか見られない[235]。 日本仏教への南宋の影響としては建長寺、円覚寺に始まる禅宗到来のイメージが一般に強い。しかし滞在12年の入宋僧俊芿(しゅんじょう)に始まる京都泉涌寺系律宗も忘れてはならず[236]東寺東大寺の大勧進として工匠を率いる律宗指導者がスポンサーを求めて鎌倉幕府に接近したことから、南宋彫刻の様式と技法は鎌倉に伝わる[237][238][注 107]
実際に南宋風の仏像は泉涌寺以外では鎌倉と、鎌倉文化圏のみに残っている。それは宋仏画の影響を強くうけた白衣観音的なもので、肉身は白土塗りの上に金泥仕上げをし、衣文は文様の輪郭を練り物で盛り上げ、その上に金彩を施しているのが一般的である[注 108]。水月観音像もまさに建長寺にある南宋伝来の白衣観音にも共通する姿態であり[239]、金泥のほとんどは剥離しているものの白土(白色顔料)塗りは窪みなどに多数残っている。今は灰色の坐像にしか見えないが当初は聖観音立像と同様に金彩の豪華絢爛な像である。装飾技法としては、現状ではあまり鮮明には見てとれないものの宋風の影響を強く受けた盛上装飾が施されている。盛上装飾はこの水月観音像の他に京都泉涌寺の諸仏、横須賀市清雲寺の滝見観音像(重文)、いわき市禅長寺の滝見観音像などがあるが、ともに装飾技法だけでなく像そのものが宋風、あるいは宋伝来のものである[注 109]。この水月観音像は磐城禅長寺の滝見観音像とともにきわめて忠実な宋風様式とされる[240]。 かつては南北朝時代のものとみられていたが[241]、近年の調査で鎌倉時代も13世紀後半の作と修正されている。東京国立博物館の浅見龍介は、もしこの像が最初からこの寺にあったのであれば開山覚山尼にかかわる遺品である可能性もあるとする。銅製の冠、胸飾などは後世補われたものである。

工芸

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  • 銅鐘(東慶寺) - 指定年月日:(昭和44)12月2日[242]
鋳物師大工・大和権守光連の作で銘に観応元年とある。比較的小鐘であるが時代の特徴をよく示している[242]

鎌倉市指定有形文化財

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彫刻

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  • 木造釈迦如来坐像 - 指定年月日:2003年〈平成15年〉11月19日指定[243]
本堂に安置されている本尊で、寄木造玉眼入り[244]。像高 91.0cm。頭部内面に墨書修理銘がふたつあり、古い方の冒頭に「松岡東慶寺永正12年火事出来、本尊計出候、菩薩座光□□( 2字判別不能)」とあり、これによって1515年(永正12年)に大火事に見舞われたことが判った。 現在残る古文書に永正12年以前のものが極めて少ないのはこのとき焼失したためと思われている。聖観音立像はこの時期まだ東慶寺には来ていないので「菩薩座光」は水月観音菩薩かもしれないが不明である。1518年(永正15年)6月にこの本尊に仏師弘円が面部を彩色し、左の玉眼を入れたことが記されている。もうひとつは江戸時代初期で、1671年(寛文11年)に仏師加賀が修補とある。関東大震災で大破したが本尊は昭和初年に修復した。かつては本尊の前立に文殊菩薩、普賢菩薩があったが関東大震災で大破し今はない[245][246]
  • 木造観音菩薩半跏像
木造観音菩薩半跏像は鎌倉時代・14世紀の作で、鎌倉市指定文化財(彫刻・2003年〈平成15年〉11月19日指定)である[247][248]。写実的ながら水月観音像ほどくつろいだ印象はなく、同じ鎌倉時代でも制作年代に開きがあるとされる。髻頂上の飾り、両手首先、左目の上瞼、下に踏み下げる左脚とその周囲の垂れる衣は後世補修されたものである。金沢区富岡の慶珊寺に明治維新後の廃仏毀釈で鎌倉の鶴岡八幡宮十二坊より移された十一面観音があり、胎内の銘文により1332年(正慶元年)の仏師院誉作と判明しているが、これと極めて良く似ている[249]

工芸

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  • 銅造雲盤(寛永十九年銘) - 指定年月日:昭和40年10月13日[250]寛永19年(1633年)の銘がある。

交通・拝観等

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  • 横須賀線JR東日本北鎌倉駅下車徒歩3分(地図
  • 本堂・松ヶ岡宝蔵(売店):9:00~16:00 拝観料無料 ※境内は全面撮影禁止
  • 水月観音像拝観:毎月18日 9:00~16:00 ※事前予約の必要なし

脚注

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注釈

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  1. ^ 寺を指して御所と呼ぶものの初出は1667年(寛文7年)の銅製燈明蓋の銘文であり「鎌倉御所之塔頭二老海珠庵」とある(井上禅定1955 p.39)。現存する中で最古の寺法離縁状は1738年(元文3年)のものであるが、そこでも寺を指して「松ヶ岡御所様」と記している(高木侃2012 p.26)。
  2. ^ この「五山記考異」は『改定史籍集覧』第26冊 に「五山記考異/附住持籍」として収められている。史籍集覧が底本とした彰考館本(関東大震災で焼失)では後半の「附住持籍」は「五山住持籍」として別にあったものを史籍集覧・編纂時に現在の形にしたらしい。現状の全体では江戸時代初期とかんがえられているが(日本史文献解題辞典 p.166)、『鎌倉市史・寺社編』が戦国時代天文頃としたのは前半部分と思われる。
  3. ^ 新編相模国風土記稿 には「小田原陣の時失いしと云う、その鐘今豆州韮山本立寺にあり」と記す(新編相模国風土記稿 p.213)。しかし現在ではそうは思われてはいない。 この鐘鋳造の翌年の1333年(元弘3年)5月に鎌倉が新田義貞らに攻められ、子の北条高時以下一門が自害し北条氏が滅びるが、覚海円成尼は伊豆国韮山の地を安堵され、一族の女性たちと共に移り住み、尼寺円成寺を建立して一門を供養する。足利直義も1339年(暦応2年)にこの周辺の五ヶ郷と、駿河国の2つの郷を円成寺の寺領とし寄進している。 それらのことから梵鐘は覚海尼によってか、あるいはその後かに伊豆の円成寺に運ばれ、その円成寺が廃寺となったあと、韮山の有力者で徳川幕府の代官だった江川氏の菩提寺・本立寺に移されたものと思われている。(三浦勝男「東慶寺境内散策」『駆込寺』収録 p.191)
  4. ^ 現在東慶寺に残る過去帳には四世住持は「果庵」でなく「杲庵」と書かれているが符合する。しかし1685年(貞享2年)刊行の「新編鎌倉志」には「四世ハ須宗和尚」とあり、東慶寺の昔の鐘にある果庵了道が「何代目ノ住持ト云事未考」と割書で注記している(新編鎌倉志 pp.125-126)。 「新編鎌倉志」は1673年(延宝元年)に光圀自身が鎌倉を旅行した際の見聞記を基に作製されたが、水戸光圀は江戸藩邸の近侍に自分が着く前に、主要な寺、それぞれの土地の長老にその土地の歴史について説明出来るように用意をさせろと命じている。従って「新編鎌倉志」の東慶寺に関する記事はその当時の東慶寺の寺役人が書いた由緒書の写しを基にしているはずである。「新編鎌倉志」の編者は伊豆国韮山本立寺にある元東慶寺の梵鐘の銘文を知っていたが、その当時東慶寺ではそれを知らなかったことにもなる。僧籍でも戒名が生前の名と別なことはあり年代的には四世前後だが、東慶寺に現存する過去帳は「新編鎌倉志」以降の21世永山尼の示寂後のものである。ともあれ住持果庵了道尼は北条氏俗縁の人と見られている(井上禅定1955 p.37、鎌倉市史・寺社編 p.342)。
  5. ^ 南宋の禅宗寺院においては首座は僧堂管領、都寺は監寺総括の役僧(関口欣也1997 pp.71-72、井上禅定1955 p.38) であるので、それらの「役」が実務を伴わない肩書きであったにせよ、この時点でそれなりの規模をもった寺であったことが判る。
  6. ^ なお、東慶寺の「由来書」「旧記之抜書」には「往古草庵道心寺」があって、頼朝の伯母の美濃局がそれを比丘尼寺とし、覚山尼が再建し中興となったと記されているという(穂積重遠1942 p.41)。江戸時代の観光本「鎌倉物語」にもそう書かれているが、鎌倉時代を通じてこれを証明する史料はなにもない(鎌倉市史・寺社編 pp.340-341)。新編鎌倉志p.125)や、新編相模国風土記稿p.209)の取材に当時の東慶寺は北条時宗室の創建と答え、1768年(明和5年)に寺社奉行に差し出した事例書口上書でも北条時宗室が「寺草創」(穂積重遠1942 p.43)とあり、現在の東慶寺も覚山尼を開山としている(井上禅定1955 p.5)。
  7. ^ 「菩薩座光」は現存する水月観音菩薩かもしれないが不明である。
  8. ^ ただしそこでは寺ではなく17世旭山尼を指して「御しょ様」と云っており、「御所」が皇女用堂尼に由来するものなのか、関東公方家の姫君に対する御所号なのかは判然としない。なお、北条氏綱も氏康も「御しょ様」、「東慶寺長老」に直接手紙は出さず、形式的な宛名は「東けい寺(改行字下)侍者御中」または同「いふ侍者御中」である。「いふ」は「衣鉢」であり、今は「いはつ」と読むが、書状には「いふ」と平仮名で書いている。宛名の「東けい寺」は「寺」ではなく「住持」「長老」を指す。「東けい寺衣鉢侍者」とは「御しょ様」とまで言われる高貴な長老の身近く仕える尼僧である。目上の者に直接手紙を書かず、その従者に「こうお伝え下さい」と書くのが平安時代以来の貴族社会の礼儀作法である。寺を指して御所と呼ぶ最初のものは江戸時代になってから、天秀尼の示寂よりも後の無住持時代である。
  9. ^ 蔭凉軒という名は足利氏にとっては由緒のあるもので、京都の相国寺では将軍足利義持(よしもち)が参禅聴講のために総説した小御所的存在だった。後には軒主が将軍の宗教行事の披露奉行を行った。1435年(永享7)から1493年(明応2)までの断続的な記録が「蔭凉軒日録」として残る。要山尼は東慶寺・蔭凉軒の最初の庵主であり、古文書を見る限り若い住持御所様の後見人、実務の長のように見える。北条氏綱の書状から推測する役目、後北条氏と戦闘状態にあった安房の里見氏と交渉出来る立場と、号に「山」が付くことなどから、公方の娘ではないにしても関東足利氏の一族である可能性が高い。
  10. ^ その経緯、及び円覚寺舎利殿が太平寺の仏殿だったこととその建立年代が解明されるまでの経緯は『太平寺滅亡―鎌倉尼五山秘話』に詳しい。
  11. ^ 「瓊山」(けいざん)が号、「法清」が諱である。瓊山尼と呼ばれる方が多いが、法清尼と書かれることもある。 東慶寺で号に「山」が付く尼は足利氏の出と見てほぼ間違いはない。
  12. ^ これは鎌倉尼五山第三位で既に廃寺となっていた旧国恩寺領の一部である。1551年(天文20年)には東慶寺住持17世旭山尼が「いんりょうへ」として蔭凉軒要山尼に「先々の如く」と安堵する黒印状(鎌倉市史・史料編・第三第四 史料番号322「東慶寺黒印状」 p.333)も残る。
  13. ^ このとき太平寺はまだ存在しており120貫文。鶴岡八幡宮は256貫文とある。
  14. ^ 戦国時代は土地の収穫高を石高ではなく通貨単位の貫を用いる貫高であらわした。『鎌倉市史・総説編』では鎌倉では他の地域で行われた石高ではなく「北条氏が行っていた永高の制をそのまま用いた」とする(鎌倉市史・総説編 p.521)。 従って石高で記した古文書はない。『鎌倉市史・寺社編』は25貫文100石相当、つまり1貫を4石として東、この合計112貫380文を石高に換算すると450石になるとする。その根拠は慶長(1596年~1615年)の「水帳」に「永95貫900文余、惣高400石(但永300文1反、石盛十二五歩)とあるからという(鎌倉市史・寺社編 建長寺.6 p.303)。1反300文なら1町3貫文、12石ということになる。しかし石井良助は「100貫(誤植)が25石に当たるから、112貫380文は約280石になる」と書いている(石井良助1965 p.118)。「北条氏政印判状」(鎌倉市史・史料編・第三第四 史料番号328 「北条氏政印判状」 pp.339-340)に前岡郷から「此内前々納所御寺へ参分」として51貫300文を米223俵とある。江戸時代に幕府は1俵を3斗5升としたが、これで換算すると223俵は78石で1貫は1.5石となるが、時代により地方により換算レートは一定しない。 「貫」と「石」の換算以外にも鎌倉の寺社領は他所の寺社領とは全く異なり、北条氏が年貢の他に棟別を課していたのを襲い幕府の徴税の対象とし、更に新たに段銭を課している(鎌倉市史・総説編 p.521)。従って同じ貫高表示の鎌倉の寺社との比較は出来るが、逗子に寺領を持つ鎌倉の尼寺英勝寺との比較は出来ない。貫高には普通の貫高と永楽銭ベースの永高があるが後北条氏も永高を用いていたことで知られる。1547年(天文16年)の北条氏直印判状当時も永高であったとすると、徳川家康が安堵した寺領は北条氏直印判状の時点から相当に削減されたことになる。もちろんそれは家康が削減したのか、1547年以降北条氏が滅ぶまでの間に削減されたのかどうかは不明であるし、1547年当時のこの文書には永高かどうかは記されていない。
  15. ^ 鶴岡八幡宮は源氏を名乗る徳川家にとっては特別な意味を持つので840貫と飛びぬけているが。また建長・円覚の貫高には報国寺(建長)、明月院(建長)、瑞泉寺(円覚)など末寺の分を含んでおり、それを差し引くとさらに下がる。末寺分の貫高は不明である(鎌倉市史・総説編 p.572)。
  16. ^ 平均的農家の年貢のベースとなる表高は約10石であるので6貫 - 4貫とは仮に1貫を4石と換算すると農家2軒分の年貢しかないということになる。なお臨済宗以外では、日蓮宗関東総本山の本覚寺12貫、浄土宗鎮西派大本山の光明寺10貫までがかろうじて2桁以上でありそれ以外は一桁である(井上禅定1955 p.61、鎌倉市史・総説編,「鎌倉惣高之帳」pp.571-572)。ただし光明寺はその後内藤忠興の寄進などで300石となっている。
  17. ^ その諱の1字目の「法」は、東慶寺の系字(江戸時代には東慶寺の尼は全て諱の1字目は「法」)である。瓊山(けいざん)尼は前項で触れた東慶寺19世の瓊山法清であり、小弓公方足利義明の孫で父は足利頼純である。その妹の月桂院は秀吉の側室で、秀吉の死後江戸に移り家康の娘正清院に仕えていた。東慶寺住職だった井上禅定は天秀尼の東慶寺入寺は「恐らく月桂院あたりの入知恵と推察される」(井上禅定1955 p.51)とする。 断絶間際の関東公方家を、古河公方足利義氏の娘・足利氏姫(足利氏女)と、瓊山尼や月桂院の兄妹である小弓公方家の足利国朝を結婚させて、実高5千石ながらも10万石の格式の大名(喜連川藩)として存続させたのはこの月桂院の働きかけによる。なおこの月桂院が開いた月桂寺は18世紀に東慶寺と喜連川藩の仲裁役として登場する。
  18. ^ 首座、書記、蔵主は、住持の代わりに法堂の法座に登り払子(ほっす)をとって説法をすることもある重要な役職である(関口欣也1997 pp.71-72)。ただし東慶寺は格は高くとも建長寺や円覚寺のような大寺院ではないので、この場合の「蔵主」とは実際の職務ではなく肩書、地位の呼称である。
  19. ^ 大門その他もこのとき徳川忠長の「御殿」から移築されている。
  20. ^ この棟板が千姫、天秀尼、春日局の名が記された先の棟板である。「駿河亜相」の「亜相」とは大納言唐名であり、「駿河大納言」という意味である。棟板は江戸時代後期には仏殿から外されて保管されていたということになる。ということは「新編相模国風土記稿」が書かれた1841年(天保12年)以前にこの仏殿の屋根の改修工事が行われたということである。東慶寺の古文書はものにより異なるが、「由緒書」にはその他に仏殿、蔭涼軒の建物も「駿河大納言様御殿を引きせられ」(井上禅定1955 p.53)とある。ただし江戸時代初期の「新編鎌倉志」には千姫や駿河大納言の記述はない。もっとも記述量は木版本で6頁と少ないが。(新編鎌倉志 pp.125-126)
  21. ^ 三溪園に移築された旧仏殿は、1956年(昭和31年)に修理が行われ、その報告書は「仏殿の建立年代は詳ではない」とした上で「形式手法上、室町時代に属する」と述べ、おそらく1515年(永正12年)の大火災後に建立されたものが「駿河大納言様の御殿御寄付」のときにその部材をもって修理されたのではないかと推測した。それに対して鎌倉禅宗建築史の第一人者である関口欣也は、棟板は新築の仏殿のもの、1956年(昭和31年)の修理工事報告書にある「形式手法上室町時代」は様式論であり明確な根拠がある訳ではない。室町時代の要素も一部にあるが、江戸時代の鎌倉大工の作風は、17世紀中期をやや下る頃まで室町末風で保守的な傾向があり(関口欣也1997 p.146)、更に詳細に見るとやはり近世の特色を見せており、寛永11年という時代にふさわしいとする。現在ではこの関口説が定説となっている。なお「修理工事報告書」や、現在の三溪園「仏殿」前の説明文には、1515年(永正12年)の大火災を1509年(永正6年)と記すがこれは誤りである。(鎌倉市史・寺社編 pp.345-346、および鎌倉市史・史料編・第三第四 史料番号312「釈迦如来像銘」 p.326)
  22. ^ 中世・近世では屋根葺工法の中で檜皮葺が最も格式の高い技法であり、次ぎが現円覚寺舎利殿のようなこけら葺である。 一般に檜皮葺・こけら葺から瓦葺、そして茅葺へと移る。現在では瓦葺より茅葺屋根の維持の方が大変だが、江戸時代にはそちら方が維持は楽であり、建長寺では1837年(天保8年)に法堂(はっとう)を瓦葺から茅葺に改めるための勧進まで行っている(関口欣也1997 p.162)。 円覚寺の国宝舎利殿も1967年(昭和42年)の修復までは茅葺であったが、その修復調査の際、元はこけら葺きであったことが判明し、現在の姿に復元された。工藤圭章は1703年(元禄16年)の大地震のときに屋根が傷み、茅葺に改めたのだろうとする(工藤圭章1988 p.49)。 国宝正福寺地蔵堂も茅葺になっていたものを1933年(昭和8年)の解体修理に際して建築当初のこけら葺に直している。そのときにこの地蔵堂の創建が1407年(応永14年)と判り、そこから円覚寺舎利殿の創建年代が判明したという経緯がある。その改修工事の際1811年(文化8年)の墨書名も発見されており、茅葺への改修はそのときと思われる。檜皮葺から銅瓦葺に改めた例では鶴岡八幡宮の文政再建がある(関口欣也1997 p.168)。ただし入母屋造から寄棟造への改修が、推定檜皮葺から茅葺への変更と同時であったのかどうかは判らない。仏殿を入母屋造に書いた「相中留恩記略」は1839年(天保10年)完成で、棟板のことを書いた「風土記稿」は1842年(天保12年)の完成ではあるが、実は「相中留恩記略」は昌平坂学問所が行っていた「風土記稿」の調査に便乗する形で行われている。「相中留恩記略」編者の福原高峯と絵師の長谷川雪堤が相模国を写生旅行したのは1834~1838年(天保5,7,9年)の三回であるが(かながわの歴史文献55 pp.77-78)、「風土記稿」の調査は1824年(文政7年)に鎌倉郡から始まっている(「かながわの歴史文献55」 p.73)。屋根は檜皮葺でも茅葺でも数十年単位で葺替るものなので「風土記稿」の前にも後にも行われているはずである。
  23. ^ 鐘板(しょうばん)、打板(ちょうばん)、更に火版、長板、斎板などの別称がある。この雲板は鎌倉市文化財になっている。
  24. ^ 天秀尼はこの件で1980年(昭和55年)に「神奈川県百傑」に選ばれている。
  25. ^ 歴代住持墓塔のエリアに在家(出家していない人)の宝篋印塔があることは極めて異例に見えるが、19世以前の住持の墓石はどこにも無い。21世永山尼の墓が出来たのは天秀尼・台月院から数十年後の18世紀であり、その前列の院代等の墓は更に後である。天秀尼、台月院の没年にここが歴代住持墓塔のエリアであったかどうかは不明である。
  26. ^ 西堂は他のそれなりの格をもつ寺院の住持を勤めた者で、その寺の前住持を東堂と称するのと対語となると一般に説明されるが、東慶寺においては蔭凉軒主が他の尼寺の住持であったことを示す記録は無い。従ってここでの意味は住持ではないが住持格。住持の弟子である都寺・監寺などの知事、首座・書記・蔵主など頭首の上位という意味になる。他の塔頭の庵主の法階は概ね首座都寺である。
  27. ^ 庵ではなく軒であるがここでは一般名称の庵主を用いておく。徹宗法悟尼像は1735年(享保20年)に90の賀を祝った記念に書かれたものと思われる(井上禅定1995 p.179)。
  28. ^ そのときの扁額は徹宗尼の筆であり今も残る。泰平殿は元太平寺本尊の聖観音立像(現重文)を納めた。泰平殿は太平寺に由来する。この泰平殿は中門(現在の山門)の石段の右にあった。近代に現在の宝蔵前、菖蒲畑の位置に移築し本堂としたが関東大震災で倒壊する。
  29. ^ 寺役人の出身は判るものと判らないものがあるが、身分としては武士身分である。東慶寺では不明であるが、やはり寺役人を置いた出羽国宝幢寺の例(松本和明2008 pp.20-38)では「武門役服」である継袴の着用が認められ「士分」・「徒士」・「足軽」という武家の階層に当てはめれば「士分」に相当する。
  30. ^ 先に登場した19世瓊山尼の妹月桂院開基の寺
  31. ^ 鎌倉の寺はおおむねそうだが東慶寺も山に囲まれた谷戸にありその尾根までが境内である。
  32. ^ 大久保彦左衛門の子孫である。
  33. ^ 寺社奉行は定員は4名前後。このときは5名であった。原則として1万石以上の譜代大名であり阿部播磨守は武蔵忍藩10万石の大名。脇坂淡路守は播磨龍野藩5万1000石の藩主である。寺社奉行は勘定奉行や江戸町奉行とは格が異なり、老中ではなく将軍直轄で奏者番を兼任する幕臣エリートの出世コースである。この二人はいずれも後に老中になっている。他の3名は松平右京(上野高崎藩8万2000石藩主、のち老中)、松平周防守(石見浜田藩 6万5000石藩主)、堀田豊前守近江宮川藩1万3000石藩主)である。寺社奉行は自邸が役宅となる。
  34. ^ これは東慶寺に残る古文書からではなく、同じ鎌倉の尼寺で水戸藩と関係の深い英勝寺の記録による。
  35. ^ 脇坂淡路守は2度寺社奉行を勤め、後に老中となっている。
  36. ^ 貸付金は周辺地域の財力のある者の出資をうけたようで、1866年(慶応2年)正月時点での貸付総額は1,795両にものぼっている。お寺が金融業というと現在の感覚では奇異な感じを受けるが、こうした例は中世からあり江戸時代の他の寺院にも例がある。鎌倉では東慶寺の後に建長寺、円覚寺、浄智寺、鶴岡八幡宮、英勝寺も許可された(高木侃1997 pp.801-805)。ただしこの「実収半減」は本当かどうかは不明である。 法秀尼より後の1866年(慶応2年)の日記によると、二階堂から夏58両、冬65両、十二所より夏15両、冬15両の合計153両と米64俵(22石)藍6俵等の収入がある(井上禅定1955 p.79)。
  37. ^ 石井良助は「白州はおそらく、通常の裁判の場合に用いられたのであり、かけ入り女は罪人ではなく、また夫を相手どっての訴えでもないから、女人救済の東慶寺としては、これを白州に引き据えて吟味するようなことはなかったのであろう」とする。
  38. ^ 現在鎌倉宮になっている東光寺跡、永福寺跡理智光寺址は東慶寺の所有であった。 理智光寺は少なくとも江戸時代には東慶寺の末寺で明治初期まで阿弥陀堂が残っていた。本尊の木造阿弥陀如来坐像(鞘阿弥陀)は聖観音立像と同じ土紋装飾で、明治初期の廃寺に際して覚園寺に移され、現在薬師堂に安置されている。その他山林も残ったが関東大震災のときにその一部を売却して書院等を再建し、戦後に永福寺跡が鎌倉市に買い上げられてその資金で宝蔵を建築した。
  39. ^ 中世の範囲は教科書的には支配者の交代を基準として鎌倉時代に始まり、室町時代をはさんで戦国時代までとするものが多いが、歴史学者の中では農民に対する支配制度、風習などの観点などから、律令制が空洞化した後の「王朝国家体制」を中世の始まりとしたり(永原慶二1974 pp.7-82)、11世紀半ば過ぎからとする意見も多い(石井進2002 pp.9-14)。従ってここでは平安時代後半も含めて中世として扱う。
  40. ^ 山芋甘葛の汁で煮た。ほんのり甘く当時としては高級料理。
  41. ^ 当時女性は往来では顔を隠していたので重方はその着飾った女が自分の妻とは気づかなかった。そうと知らずに「つまらない女房はいるにはいますが、そいつの顔は猿のようで、心は行商女も同然の賤しさ」、「ここからすぐにお供をして、女房のところへなんか二度と足を踏みいれますまい」と云ってしまう。
  42. ^ 近衞府生であって貴族では無いが、天皇の行幸や高官の外出時の警護の際には騎乗を許可され前駆する立派な武官である。
  43. ^ 源平合戦(治承・寿永の乱)の頃、木曽義仲の妾巴御前の武勇は物語で有名だが、確実な例は『吾妻鏡』にある。「建仁の乱」のとき、城長茂の叔母板額御前鳥坂城で「童形の如く上髪せしめ、腹巻(鎧)を着し矢倉の上に居て、襲い到るの輩を射る」、そして射られた者はほとんど死んだと伝える(吾妻鏡2 建仁元年5月14日条 p.588)。 これは特異な例ではなく『吾妻鏡』には「女騎(にょき)」という女武者の一団の記述もある(吾妻鏡2 建仁3年9月29日条 p.611)。
  44. ^ 鎌倉時代前半に大きな勢力を持っていた三浦氏が滅ぶ宝治合戦(1247年(宝治元年)6月5日)のとき、大江広元の四男毛利季光北条時頼のもとへ駆けつけるべく「甲冑を着し、従軍を卒して御所に参らんがために打ち出ずるところ」妻に鎧の袖をつかまれて「私の兄(三浦泰村)を捨てて、時頼につくとは何事か」と詰め寄られて三浦方に付き、一緒に滅んだ(吾妻鏡3 宝治元年6月5日条 p.381)。この三浦泰村の妹は前日に兄のもとを訪れ、夫に「我身諷諫を加え一同なさしむ」と述べている(吾妻鏡3 同4日条 p.380)。 一方で三浦一族の内、時頼の祖母である矢部禅尼の子佐原盛時ら三兄弟だけが北条時頼方に付いた。矢部禅尼はこのとき伐たれた三浦泰村の兄妹で、北条泰時の最初の妻。時頼の父時氏を生んだ後に泰時と離縁し、佐原盛連に嫁いで盛時ら三兄弟を生んでいる。矢部禅尼にとって北条時頼は可愛い孫である。他の佐原一族は三浦氏と運命をともにした。 14代執権北条高時が執権を退いたとき、中継ぎとして15代執権となった庶流の北条貞顕に対して東慶寺の大鐘の檀那として本稿でも出てきた北条貞時の妻、高時の母の覚海円成尼は大いに怒り、貞顕を打つとの風聞さえ流れたため貞顕はわずか10日で辞任し出家した。嘉暦の騒動という。
  45. ^ これは悔還(くいがえし)権についての定めである。親の存命中に所領を譲った場合、子が親の意に沿わない場合には譲った所領を取り返すことが出来る。リア王のようにはならないというのが「悔還」である。 それ以前の朝廷の法律家(明法家)は、息子に与えた所領は「悔還」が出来るが、娘に与えた所領は他家に渡っているので「悔還」は出来ないという解釈だった。そのために親は存命中に娘に所領を譲ることを躊躇することがあった。それに対して北条泰時らの「御成敗式目」は、そのような事態は「親子義絶」の始まりで「教令違反」の原因でもあるとし、男女ともに「悔還」を有効とするので、安心して娘にも所領を譲ってやれとこの18条で云っている。当時は嫡男による単独相続ではなく、分割相続だった。
  46. ^ 例えば1279年(建治元年)7月8日の将軍家下文で佐志村地頭を安堵された久會は肥前水軍松浦党の一族・佐志房(「佐志」が名字で「房」が)の孫娘で、「松浦有浦系図」はこの久會を「女地頭」と記している。さらに下って、南北朝時代の1364年(正平19年)の懐良親王令旨をもって「松浦斑島女地頭」に知行地を安堵しており、今川貞世感状を与えている。翌年2月に軍忠状を進めた「松浦斑島地頭尼」もおそらく同一人物であり、代官を戦場に送っている。
  47. ^ 十六夜日記の著者阿仏尼が鎌倉に来たのも訴訟のためである。
  48. ^ 鎌倉時代中期の僧無住道暁が現した仏教説話集『沙石集』の巻7-10話「先世ノ親ヲ殺事」は美濃国の話である。妻が夫から逃げて地頭に訴えたのだが、父親の生まれ変わりであると妻が夢に見た雉を殺してしまった夫は「逆罪」であると夫を追放し、妻は情けあるものとして家と田畠をもらい公事も許されたという話である(田端泰子2002 p.37、ただし田端は10話と11話をゴッチャにしている)。 巻7-11話の「無情俗事」は陸奥国の話で、「慳貪」な夫を妻が地頭に訴える。地頭は「夫こそ妻をさる事あれ、妻として夫を去る事如何なる子細ぞ」と事情を聞き、その結果夫は追放刑に処され、男公事は免除されたと。「慳貪」とはどれほどのことかと云うと、30尾も獲った鮎を夫は妻にも子供にも与えず、全部一人で食べてしまったという程度である。妻は残った家と田畠をもらったのか、そもそも妻のものだったのかは判然としない。「夫こそ妻をさる事あれ」の解釈による。 二話ともに妻が地頭に訴え出ることで離婚出来ている。両方の説話とも「逆罪」とか「慳貪」を戒めることが話の中心であって、妻が地頭に訴えることには何の異論も差し挟んではいない。むしろそんな男なら妻が地頭に訴えることも、地頭がその男を追放し、財産を妻に与えることも当然と作者無住は捉えている。 この話は穂積重遠も一部を引用しているが「地頭が妻の離婚願を取上げるのであるが、しかしそれは特別処分だということになっている」と書く(穂積重遠1942 p.38)。しかしその記述は「沙石集」の著者無住国師が生きた鎌倉時代の世態・風俗・人情を伝えるとされる写本「梵舜本」にはない。穂積重遠は「梵舜本」に「巻7-11話、無情俗事」とある説話を「巻7-16話、慳貪者の事」と書いているので、参照した写本は「米沢本」であろう。「米沢本」は室町末期から江戸初期の書写と考えられている(沙石集 「解説」 pp.22-23)。江戸時代の奉行所・代官所の儒教感覚ならこの裁定は有りえず「特別処分」と書かなければ皆がくびをかしげる。 なお「沙石集」はあくまで仏教説話集であり事実を忠実に記している訳ではない。著者無住と、それを読みまたは聞いた人間が普通のことと感じている鎌倉時代の世態・風俗を知ることができるという点で評価されている(佐藤進一1963 pp.2-4)。
  49. ^ 最初に女性が公的な世界から排除されるようになった契機は中国から輸入された律令制の浸透によってであるとされる。平安時代においても女性は位階はもっても官職からは排除されている。
  50. ^ フロイスはイエズス会の宣教師でありカトリック教会は離婚を認めない。「堕落した本性にもとづいて」にはそういう背景がある。
  51. ^ 当時のカソリックは離婚して再婚すると教会法上の重婚状態とされ、その罪のため聖体拝領を受けることが出来ない。 他にはこういう記述がある。「日本の女性は処女の純血をなんら重んじない。それを欠いても名誉も結婚も失ないはしない(結婚できる)」「日本では、娘たちは両親と相談することもなく、一日でも、また幾日でも、一人で行きたいところに行く」。 フロイスが見た戦国時代の日本とは長崎から堺、京までの西国であろう。これらは近代の瀬戸内海、山陰山陽の常民(簡単に云うと庶民)にも見られた。 前者は宮本常一2001 p.43、後者は宮本常一1984.5 pp.105-130 および宮本常一1984.7 p.23、宮本常一2001 pp.92-96)。 「日本の女性は夫に知らさず、自由に行きたいところに行く」。 「ヨーロッパでは財産は夫婦の間で共有である。日本では各人が自分のわけまえを所有しており、ときには妻が夫に高利で貸し付ける」。 高木 侃は『三くだり半』の中で「明治民法は、それ以前は立前にすぎなかった夫権優位を現実に強制したのであり、たとえば "貞女二夫にまみえず" といった儒教的婦徳が現実に要求された妻は "家" という強固な枠組みの中で縛り付けられ」(高木侃1992 p.21)」と述べたが、儒教が浸透していない中世では「夫権優位」は立前ですらなかった(田端泰子2002 「9.中世女性と近世女性の差」 pp.277-292)。
  52. ^ あるいは「実現出来なかった」という方が適切かもしれない。戦国時代奥州伊達家の「塵芥集」などには子供の分配を決める項目がある(大石慎三郎1995 p.4)。男の子は父親の主人が、女の子は母親の主人がとるが、10 - 15歳まで育てたら育てた方の親の主人がその子供をとると。どっちの親がではなくてどっちの親の主人がである。子供の親は夫婦として独立した家に住んではいないということである。親も子供も主人の所有物だと。似たような例は鎌倉時代の御成敗式目の他(中世法制史料集1 「御成敗式目」41条「奴婢雑人事」 p.24)、極楽寺の古文書(中世法制史料集1 追加法676条 p.301)にも見られる。
  53. ^ 男子禁制の東慶寺が夫から逃れるための妻の駆込みを受け入れることも言語道断とされ、荻生徂徠門下の太宰春台などは1717年(享保2年)に鎌倉を訪れた際の紀行文『湘中紀行』にこう書いている。 「婦人あり其の良人を悪んで而して去るを得ず、また淫行ありて而して発覚を懼るる者、二心ありて而して改嫁せんとするも者、髪を断って而してこの寺に入れば則ち本夫も之を制するを得ず、…これ其男子を厳禁する所以なり。夫れ尼寺の男を禁ずるは以て淫を防がんとするなり。今乃ち男を禁じて以て世の婦人の淫行を助く。誰か松ヶ岡を淫婦の叢林にあらんずと謂ふや」(井上禅定1976 p.145)。松ヶ岡とは東慶寺のこと、叢林とは禅寺のことである。
  54. ^ 例えば島崎藤村は1929年(昭和4年) の『夜明け前』に「幾時代かの伝習はその抗しがたい手枷足枷で女を捉えた。…しかし、こんな娘達の深い窓のところへも、この国全体としての覚醒を促すような御一新がいつの間にかこっそり戸を叩きにきた」と書く。
  55. ^ 女性の「手枷足枷」は江戸時代よりもむしろ明治時代、それも最初からでなく後半からである。一般庶民の結婚感に影響を与えたものに1890年(明治23年)の教育勅語発布から始まる修身教育がある。 初代文部大臣であった森有礼は儒教主義に批判的で欧米化政策を進めようとしたが、1879年(明治12年)に儒学者で天皇の侍講であった元田永孚が起草した『教学聖旨』が提示される。これは古来からの儒教主義的道徳観にもとづく教育の確立を目指したもので、しばらくは伊藤博文福沢諭吉ら欧米化政策派からの批判に晒されはしたものの、天皇による聖旨という形で書かれたために影響は大きく、1882年(明治15年)の文部省による『小学修身編纂方大意』以降、儒教に基づく修身教育が進められる。 庶民の世界にも「忠君孝心」とか「女三界に家無」な儒教的立前(武家道徳)の植えつけが効果をあげ始めたのは1900年前後(明治30年代)に児童の小学校就学率が高くなって以降である(宮本常一1987 pp.226-229)。明治民法が施行されたのもちょうどその頃の1898年(明治31年)である。しかしそれがより強く浸透したのは都市部とか旧制中学女学校に通える程度の上中流層であった。島崎藤村は地方の名家の生まれで明治学院に入学したのは1887年(明治20年)である。
  56. ^ 石井良助の「夫専権離婚説」として「このことは夫は何の理由も示さないで、離婚できたことを示している。すなわち、徹底的な夫の意志だけで離婚が成立する専権離婚であり、また離婚の成立に特定の原因を必要としない無因離婚だったのである」という言葉が知られている(石井良助1965 p.49)。しかし石井は同時に「夫が不始末をしでかして、お詫びのために離婚しなければなららくなった場合でも、離縁状を書き、離婚する者は夫であった」(石井良助1965 p.25。)、「夫婦"示談" "相談"の上での離婚であっても、形式的には夫が妻を去る(離縁するの意味)形式になる」というように(石井良助1965 p.65)、実態としても「夫が勝手気儘に妻を離婚出来た」と言っている訳ではない。家を出される婿養子の離縁状でも「勝手ニ付」であり、かつある入夫の事例では同じ離婚に離縁状が二通残っていてひとつには「親子共縁切」とあること。かつ二通とも宛先に「御親類中」もあることから「おそらく前の離縁状を書いたあとで、子の処置について(親族内で)問題が起こり、改めて子の縁も切るという一札を入れたものであるう」と述べている。これは実態としては親類まで含めた「熟談」が実態あることを示しており、石井良助はそのことに注意を喚起している(石井良助1965 pp.92-93)。また「地震・雷・火事・大屋」という節では「その大屋をさしおいて、勝手に離縁状を妻につきつければ、あとで大屋から雷が落ちるであろう。そこで、いちおう大屋に相談することになるのだが、そうすれば、家守(大屋)は調停の役を勤めたにちがいないのである。農村では大屋にあたる者はいなかったにしても、五人組とか名主がその役目をしたであろう。…そういうわけであるから、離婚するには、夫は離縁状を妻に渡せばよかったとはいうものの、そう簡単にはいかなかった場合が多いとおもう」とも述べている(石井良助1965 p.40)。後に出てくる東慶寺の寺法離縁の手続きで名主と五人組を巻き込んでいるのもそういう意味がある。
  57. ^ 歴史家の一部にもそういう認識を持つ者がいる。 例えば井上清 は「(離婚は)もっぱら夫の側からなされ、夫は"我ら勝手につき"・・・と三行半に書いた離縁状をつきつけさえすればそれでよい"無因離婚"(正当の理由原因の無い追い出し)であった」と書く(井上清1949 p.158)。五十嵐富夫も「多くの離縁状には離縁の原因としては正当性を欠く理由、"我等勝手ニ付"、"家風ニ不応"・・・等をあげ、一方的に夫から夫から妻に離縁状を突きつけるのが一般的であった。"我等勝手ニ付"に至っては、理由も何も示さないのと同じである。このことは、夫の意志いかんで妻の意向を無視して、一方的に離婚することが可能であることを示したもので、当時の妻の座が極めて不安定であったことを示している」と書く(五十嵐富夫1989 p.181)。
  58. ^ 中には妻の不倫を臭わせるものもある。通常は「誰と再婚しても構わない」と書くが、まれに「誰それを除き」というものがある。その場合でも「浮気をしたから」とは書かないで「我等勝手ニ付」である。
  59. ^ 離縁状を渡した夫が、その受け取りの一札をとっている事例は研究者以外にはあまり知られていない。元夫が再婚したあとで、元妻が離縁状なんてもらっていないと訴えると元夫は二人妻(重婚)の咎を受けて大変なことになる。 先の井上清 は「この離縁状のないかぎりは、かりに妻が夫家を逃げ出して何年経っても、離婚にはならず、従ってその女はほかの男を愛することも出来ない」と書き(井上清1949 p.158)、五十嵐富夫も「離縁状を入手しない限り妻は婚姻状態が継続していると解せられていた」と書くが(五十嵐富夫1989 p.116)、これは代表的な幕府法「律令要約」や「公事方御定書」の規定によっても誤りである。 そもそも夫が離縁状も書かずに後妻をもらうと幕府法「公事方御定書」では「重婚」で「所払い」あるいは「家財取上げ、江戸払い」の刑に処せられる(高木侃1999 p.49)。井上清は縁切寺法を「八方塞がりの封建社会の息抜きの小窓として、宗教とむすびついてこういうものがつくられたのであるが…一つの偽善的な制度であると書くが(井上清1949 p.159)、東慶寺と満徳寺が幕府寺社奉行所の圧力に必死で戦った結果出来たものが両寺それぞれの縁切寺法であることは、東慶寺、満徳寺に残る、あるいはそれに関わる奉行所・藩などの史料でわかる。 また、離縁状は全国一律に必須とされていた訳ではない(石井良助1965 pp.35-37、高木侃1999 pp.231-232)。そもそも最も封建的で男優位であるはずの武士の世界では、結婚も離婚もそれぞれの家が支配の上司に届けることで正式に成立する(高木侃1999 pp.102-103)。ただし離縁状が全く用いられなかったのかというとそうでもない(高木侃1999 pp.442-454)。
  60. ^ 江戸時代というのは平安時代末期から戦国時代まで続いた在地領主制を廃止して「士農工商」で「士」と「農工商」を分離した上に成り立っている。単に身分の分離だけではなく、武士は城下町に住み、農民の社会は「村」で、その村には武士は住んではいない(佐藤常雄1995 pp.92-94)。例外は有るが。 もうひとつは、先に触れた農民に「家」が確立したこと、すなわち小農の自立である。「村」は農民の自治で運営され、年貢も村単位で、村の代表者である名主等が幕府や藩に村の年貢を納める。名主というと代々世襲のイメージが強いが、そんな例ばかりではなく1年ごとの持ち回り、選挙で決めることも多かった(佐藤常雄1995 pp.99-101)。 その村の中でのもめごとは勿論、村と村とのもめごとでも、基本的には仲介者をたてるなどして話し合いで納める。例えば信州のある村の「村中一統申合定書」には「村方の困窮者を良く見極めて救済すること」などと一緒に「訴訟や喧嘩口論は決して行わないこと」が上げられている(佐藤常雄1995 pp.121-124)。 今ではあまり良い意味では使われない「ムラ社会」とは、その村落共同体の独自のルールによる自治のことである。従って、縁切寺への駆け込みや奉行所などへの訴えなど、今日古文書に残るものはその「ムラ社会」内の調整機能では収まらなかった例外であるとも云える。 その「ムラ社会」内の調整機能たる「仲人・親類・五人組等の介入・調整」はかなりの長期に渡ることがある。史料に残る最長は、穂積重遠が紹介した3年である(穂積重遠1942 p.13-14)。これは同じ夫婦の離縁についての離縁状の日付と、今で言えば住民異動、戸籍の異動に相当する人別帳に関わる「送り状」の日付の差である。つまり夫が離縁状を書いても双方に対立があり、「和談」にならない場合は名主などの村役人も離婚済みとはしなかったということである。別の夫婦の離縁ではその間の調整の子細を述べる古文書があり、これは戌(いぬ)年11月に妻が実家に帰された件での子(ね)年5月の「済口一札」であり、その間約1年半が経過している(穂積重遠1942 p.15-20、石井良助1965 p.38)。 「形式上妻は夫から離縁状を受理」の良い例に婿養子の離縁状がある。養子縁組の解消権は養父にあり、養父が養子縁組を解消すると、普通はその家の娘との結婚も解消される。しかしこの場合でも夫から妻への離縁状が必要とされた。これは「任意」ではなく、養父は養子から娘への離縁状を取らないと、お上から「不念」として譴責された。「去状を、書くと入婿おん出され」という川柳があるが、無理やり書かされる離縁状でも、その文言は「此度我等勝手に付、離縁致し」なのである(高木侃1992 pp.60-61)。石井良助も紹介しているが、「傍付添御門前迄罷越」と夫に付き添われて東慶寺に駆け込んだ女房がいる。「安政三年曾屋村のまさ」である。夫は「勝手気儘に妻を離婚出来た」のなら有りえない話である(井上禅定1955 pp.159-160 、石井良助1965 pp.24-25)。石井良助の「夫専権離婚」説はそれを承知した上でのことである。
  61. ^ もうひとつの実例は「此度我等勝手ニ付、不縁之義」の次の行に「任其意」(その意に任せ)と書かれた三下り半もある。 これは「妻の勝手」(離婚要求)であったことを示す(高木侃1992 p.96)。
  62. ^ 妻の書いた離縁状」のケースは妻と夫が互いに離縁状をしたためている。 内容からは2年前に養子となった夫が病のため婿養子としての勤めが果たせなくなったからというものであり、妻側は百両の「離別之験」を夫に渡している。このケースは百両もの「離別之験」を出せる商家(質屋)であり、「病のため婿養子としての勤めが果たせなくなったから」とは「決して落度があった訳ではない」ということで、更に「婿養子としての行いは申し分なく、よくやってくれました」と表明し、出される婿の世間体に配慮している。だがそれを妻側が表明するところに力関係が見える。
  63. ^ 対馬や瀬戸内海あたりでは「テボをふる」「ホボロをふる」という言葉があった。江戸時代からあった言い方のようである。「テボ」とは藁で編んだ籠のようなもので、山口県の萩では「ホボロ」「ホボラ」ともいう。それひとつで、あるいはそれふたつを天秤棒で担いで嫁入りすることを「テボカライ嫁」という。江戸の落語に「[[たらちね (落語)|]]」があるが、そこに出てくる風呂敷づつみひとつので大家に連れられてやってくる嫁のようなものである。その「テボカライ嫁」に対して「あそこの嫁がテボをふったそうな」という使い方をする。嫁が婚家を去ったという意味である。本当に夫を嫌っている場合には親元には帰らないで、夫の目に届かないところへ行ってしまう。戻ってくれと云われれば条件次第では考えても良いという場合には親元へ帰る。きっと夫は詫びてくる。そんな場合には親は娘を無理に婚家へ帰そうとはしない。 相手の出方をまつ。妻が夫に追い出されたという場合は「テボをふる」という言葉は使わず、またそういう例は少ないという(宮本常一2001 pp.53-54、宮本常一1987 p.43)。その聞き取りは昭和だが、民俗学で浮かび上がってくるものは江戸時代から変わらない習俗が多い。 「貧農史観は誤り」というのは正しくはあるが、しかしそれは江戸時代の農家平均の話であって、山間部や瀬戸内海・対馬のような島の寒村では明治・大正においても江戸時代初期のような生活であった。 それらの村では米は年貢に取られてしまうのではなく、畠が中心でそもそも米は作ってはいないか、あるいは極めて僅かしか獲れない。 そういう村で米を食べようと思うと娘が「穀寄せ奉公」と云って田のある平野地方に出稼ぎに行く。 そこでは米が食える。40日ぐらいの農繁期を働いて労賃が米一俵になるとそれを担いで帰ってくる。それで正月は家族みんなが米や餅を食える(宮本常一2001 pp.89-92)。 そうした関係もあって女性の行動範囲は案外広く、夫の目に届かないところへ行ってしまうことはさほど困難ではない。 これらの地方で江戸時代に「嫁がテボをふった」場合に離縁状はどうなったのかというと、四国、中国、九州ではそれを必須としていない処が多い(高木侃1999 p.228)。実際に四国は全域、中国・九州では大半の県で離縁状は1通も見つかっていない(高木侃講演会資料2013 p.2、高木侃2012 pp.40-42)。 従って離縁状も縁切寺も、極論すれば地域限定のローカルな話であって日本全国に当てはまるものではない。 ちなみに関東ではどうかというと、鎌倉も含む湘南の御輿甚句にこういうものがある。 「せぇ〜 娘 十七・八 嫁入りざかり 箪笥・長持・鋏箱 あれこれ持たせてやるからにゃ 必ず帰ると思うなよ そこで娘の言うことにゃ ととさん かかさん そりゃ無理よ 西が曇れば雨とやら 東が曇れば風とやら 千石積んだる船でさえ 港出るときゃまともでも 風の吹きよぅじゃ出て戻る ましてわたしは嫁じゃもの ご縁が なければょ〜 出て戻る」。御輿甚句は男も女も、老いも若きも、親も子も一緒に御輿を担ぎ、あるいはその廻りに集うところで歌われる。これが実際の庶民の感覚である。
  64. ^ なお、「駆込は迷惑だから受け付けない」と表明したところは、以降全くの門前払いだったのかというとそうではなく、縁切奉公は受付ない代わりに妻実家方、夫方の名主を呼び出して「夫に縁切状書かせろ」と命ずる。 江戸時代ももうちょっとで終わりという1858年(安政4年)に、相模国淵野辺村から、同じ相模国の東慶寺でなく江戸の地頭所(領主である旗本の屋敷)へ離縁を訴え駆込んで「内済離縁」を勝ち取った女房がいる(長田かな子2001 p.128)。「夫の手に負えぬ場所」は江戸時代を通じてそれなりに機能していたといえる。
  65. ^ 「死罪」は死刑の中でも重く、死体は山田淺左衛門が刀の試切りに使う。 更に死体は埋葬されず取り捨てられる(長田かな子2001 p.194)。
  66. ^ 幕府法では密通は殺人などと同様の刑事事件で、立前では内済は認められないはずなのだが、「夫疑相晴」なら「内済願下」つまり内済で訴えを取り下げることが認められていた。 夫が訴え出た場合でも、役人に説得されて「夫疑相晴、申分無之」と記録に書かれて訴えは下げられ、内済離縁で決着する場合がほとんどだという。東慶寺に駆込んだ「かね」の一件でも、妻かねの側に過去に密通があったが詫びて復縁したことが出てくるが(髙木侃2011 p.23)、町奉行遠山左衛門尉は既に内済しているので不問にしている(髙木侃2011 p.25)。 相模野の村方古文書では密通の二人が夫に殺されたのが一件、蒸発が二件、あとの四件はどうやら元の鞘に収まったようである(長田かな子2001 p.194-206)。
    ちなみに中世ではどうだったかというと『吾妻鏡』建長4年10月8日条に「民間の愁訴を休せんがために今日条々を定められる」とある。 その8条が「他人の妻を密懐する事」つまり密通であり「名主の過料は30貫文、百姓は5貫文。女の罪科の事はもって同前」とある。 ここでの名主は御家人・地頭ではなくとも小領主で百姓から税金を取れる立場、かつその名の税金を国衙なり荘園領主へ支払う立場で、百姓は自立した納税者ぐらいの意味である。その下に自立した「家」を持てない奴婢・雑人がいる。 江戸時代の農民とはだいぶ異なるが、男も女も同等で罰金刑で済んでいる。かつ妻も自立した財産を持っていることも示している。
  67. ^ 石井良助は「卯年より巳年9月まで比丘尼を務めたので」と書き、高木侃は「足掛3年比丘尼を務めれば」と書くが、判決のあった貞享5年は辰年であるので、ふりは前年(卯年)のおそらく9月に駆け込んでおり、巳年(翌年)9月までというのはふり在寺中の幕府評定所の判決であろう。
  68. ^ 幕府の裁判は「吟味筋」と「出入筋」の二つに分かれる。 「吟味筋」が刑事事件、「出入筋」が民事訴訟にほぼ相当する。その「民事訴訟」は4つに分かれる。 「本公事」「論所」「金公事」「仲間事」である。
    「仲間事」は訴えても不受理。 借金なんかの「金公事」は受理されるが効果は薄い。結局、「本公事」と「論所」が民事訴訟の中心になるが、ただし裁判で判決ということはほとんどない。 「論所」は山論水論などの土地の境界についての争い事で、村対村、藩対藩のような大きな問題なのだが、その土地の慣例が大きく影響するために法廷はその領主や代官に現地での解決を命じる。要するに調停委員を任命して「和談内済」を進めさせる(笠谷和比古1994 pp.161-163)。
    残る「本公事」は「質地」「小作米」「給金」「家賃」などで、裁判、判決(裁許)まで行くことがある。 裁判となってからも内済の交渉は続けられる。 奉行所もそれを推奨し、場合によっては調停者を任命したりする。 そればかりか「和談内済」を拒む強情な者には威嚇を加えることもある(笠谷和比古1994 p.169)。
    この威嚇の寺社奉行所での実例は1854年(嘉永7年)に満徳寺に駆込んだ「きよ」の一件が(高木侃2012 pp.147-150)、東慶寺の事例では1859年(安政5年)の「てう」の一件がある。 「きよ」の一件では、夫は史料に残る範囲ではとんでもない夫で呼び出しにも応じない。 閉口した満徳寺は寺社奉行に訴える。 寺社奉行所は寺法通りに離婚を申し付けることは簡単だか、それでは遺恨が残るので、かりに妻方が趣意金を払ってでも内済にするようにという意向だった。 しかし夫は応じない。 その強情夫に対して寺社奉行所は仮牢を申し付ける。 さしもの強情夫も屈服して満徳寺へ詫状を出し、満徳寺は寺社奉行への訴えを取り下げる。 奉行所的には双方の「和談」が成立して訴えが取り下げられたのだから「内済」である。
    「立前」としての法は法としてとっておきながら、民事なら圧力を掛けてでも「内済」で済まさせることによって、「立前」と「現実的対処」の調和をとったとみることもできる。 これが幕府の民事訴訟に対する態度である。
    離縁の裁定は慣習法はあっても、お上の裁定でも遺恨を残しやすい。 離縁状は白黒をつける最も良い証拠である。 それを浸透させれば厄介な離婚訴訟が奉行所に持ち込まれることは少なくなる。 持ち込まれても白黒付けるのは簡単になる。
  69. ^ 足掛3年どころか満3年経っても夫が離婚に承伏しない例は後に述べる前橋藩の記録にみえる。
  70. ^ 先に触れた「かね」の一件では東慶寺は寺社奉行に、夫方は町奉行に訴え、寺社奉行と町奉行との間にやりとりがあったが「東慶寺の寺法では犯科もの(犯罪者)は受け付けないはずではないか」との町奉行の主張に理があるとして寺社奉行が折れている(髙木侃2011 p.25)。 必ずしも寺社奉行が強かった訳ではない。 結局「かね」はお咎め(おそらく手鎖、髙木侃2011 pp.25-26)を受け、その後に東慶寺へ引き渡され24ヶ月拘留されている。 東慶寺への駆込みは必ずしも不当な夫に泣く妻ばかりではなかった。 「かね」の一件の東慶寺側文書は宝蔵にて常時展示されている。
  71. ^ 前橋藩はしかたなく郡代に「夫に離縁状を書かせろ」と命じるが、ただし満徳寺に渡すのではなく妻方に直接渡させろと命じている。 このように幕府と各藩、あるいは担当者によってかなりの温度差がみられる。
  72. ^ 江戸木挽町常次郎娘さよ一件。このときの町奉行は遠山の金さんこと遠山左衛門尉である。
  73. ^ 元次元年多摩府中のきよ女の事例。寺役人は姑を呼び出して吟味し、やはり姑が悪いと別宅を建てさせて、息子夫婦は姑舅と別居することで収まった。(井上禅定1955 p.120、井上禅定1995 p.112)
  74. ^ 「出役達書」は「他行止達書」(たぎょうとどめたっしがき)ともいい、意味としてはこちらである。 この日は他所へ行かずに家に居ろと。
  75. ^ このとき夫方は2通の離縁状を作成し、1通は妻に、もう一通はその写しとして東慶寺に差し出す。 この2通とも現存する例が1例だけある。 写しの方は東慶寺旧蔵文書(小丸文書)で、もう一通は研究者の高木侃が古書店から入手した。 同じ筆跡で字配りも同じである。 違うところは、東慶寺に差し出す写しに良質の紙を使い、妻に渡した原本は横帳の白紙を用いていており、折り線や綴じ穴が残っている(高木侃1992 p.132-136)。
  76. ^ 上半分と下半分で字の向きが違うのは紙を二つに折って、その表(右下)から書き始め、裏(左上)に続けたものを開いて展示していることによる。これを「折り紙」と云う。平安時代には非公式な手紙にこの方式を用いたが、江戸時代には正式な書法となった。「折り紙付」とは書画骨董などの鑑定書をこの「折り紙」の様式で書いたことに始まる。
  77. ^ これらの呼称はあくまで現代において寺法の整理・理解の為に付けられた呼称、云ってみれば学術用語であり、当時そう呼ばれていた訳ではない。例えば井上禅定は「寺法書」「拘置御奉書」と呼び、石井良助は単に「奉書」と呼ぶ。
  78. ^ 意訳であり、この原文は井上禅定1995 pp.104-105 にある。
  79. ^ 「仮入牢」で夫が屈服し「寺法離縁状」を書くことに同意したのでも、東慶寺から「下げ」願いが出されれば奉行所的には「内済」である。 夫が「理解」したのであって、強制的に命じてはいない。 強制的に命じないからといって東慶寺への保護が弱まった訳ではない。 これはこの時代、江戸時代後期の幕府の民事訴訟への一般的な姿勢である(笠谷和比古1994 p.169)。 一方、東慶寺からすれば「出役」以降であるので「内済離縁」ではなく、あくまで「寺法離縁」である。
  80. ^ なお、東慶寺に残る文書には趣意金の話は出てこないがこのケースでは妻方は夫に30両の趣意金を渡して寺法離縁を承服させている。 趣意金とは慰謝料・手切金のようなものだが、別れたいと言い出した方が支払う。 これを「離婚請求者支払義務の原則」と呼ぶ。 東慶寺文書は妻の言い分が多く残るが、先に触れた「かね」の一件の様に反対側の文書を突き合わせないと実態はわからず、また両方揃うことは稀である。 束慶寺書と当事者側文書の両方が揃う内済離縁事例で、妻方からの慰謝料が明記されたのは明治3年武州入間郡からの「ます」の事例だけである(髙木侃2011 p.21)。
  81. ^ ちなみにこうひとつの縁切寺満徳寺は駆け込み件数は124件(文書151点)であり、寺に残るものは約40件(文書52点)である(2013.7.28 高木「世界に2つの縁切寺」講演会資料)。
  82. ^ 他の年の日記帳は関東大震災他で失われた。
  83. ^ 縁切を求めて駆込んだ女の脱走は5件あるが断片的な記録しか残っていない。 ただし内一件は円覚寺の「留帳」に詳細な記録が残っており、その一件は浄智寺の長老が貰い受ける(取り扱う)ことで決着している(高木侃1997 p.781)。
  84. ^ 普代の寺役人石井家の子孫が祖母の話として「駆け込みが一人あると一身代をなくしたそうだが、駆け込み女には大家の娘さんなどもいて、振袖をきて踊りを教えてくれたり、贅沢三昧なことをしていた・・・。 しかしなかには貧乏な女も入っていた」と伝える(高木侃1992 p.177)。
  85. ^ 日銀・貨幣博物館「江戸時代の1両は今のいくら?」というペーパーで、1838年(天保9年)頃、19世紀前半の関東の農村の一例として賃金は武家下女奉公人が年間2~3両、町方奉公人は男2両・女1両(奉公人は衣食住付)、通いの料理人の賃金は1日300文(この頃1両は6500文で22日で1両)。1両で買えるものは米150kg(1石)、蕎麦406杯(1杯16文)、饅頭2170個(1個3文)、卵930個(1個7文)、傘26本(1本250文)などをあげている。
  86. ^ 実際には北西だが厄介なのでここでは建物の正面を南側とみなし、正面側の玄関から上がった先なので北ということにする。
  87. ^ 狩野探幽作の「八仙人の手違い」。 今は裏千家今日庵の寒雲亭にある。
  88. ^ 裏千家は千利休から5代目(裏千家としては2代目)にあたる常叟宗室以降、幕末に至るまで茶道指南として久松家に仕官していた。
  89. ^ 堀越宗円は女流茶人として有名で、女性として初めて「老分」となる。 老分は裏千家の重要役職で、各時代の財界人・文化人で、茶道に造詣の深い者が任ぜられる。
  90. ^ 利休の作とされる妙喜庵の待庵は二畳という狭小な茶室ということで有名だが、実際には4畳半を中心として、寒雲亭の様に8畳の茶室もあり「広間」と呼ばれる。
  91. ^ 別室に「小間」のお茶室もある。
  92. ^ 貴人口は元々は身分の高い客の出入のために設けたもので、「にじり口」のように背をかがめてにじるようにして入るのではなく、立ったまま入れる入口。
  93. ^ 下座床(げざどこ)は、亭主が茶をたてる点前座の後方に床の間を設けたもの。
  94. ^ 向切(むこうぎり)は点前畳(点前座の畳)に切る入炉だが点前畳の右上角、客畳側に寄せて切る。 その逆、点前畳の左上角に炉を切ることを隅炉(すみろ)と云い、点前畳に接した隣の畳に炉を切ることを出炉(でろ)と呼ぶ。
  95. ^ 前田青邨の墓は横浜市の總持寺にもある。
  96. ^ 状況証拠はいろいろあり、ほぼ間違いないとは思われているが確実な証拠はない。これを大平寺本尊と記す史料は、1点は観音堂泰平殿のみのと思われる棟札銘と2点の古文書であるが3点とも江戸時代のものであり、それぞれ氏名の誤記や虚偽の記述がある(三山進1979 pp.125-128)。例えば「その由来東鑑に委し」などである。「吾妻鑑」に大平寺の記事はない。 棟札銘にはこの聖観音立像を「大宗国陳和慶(卿)之彫刻」と記すが、陳和卿は鎌倉時代初期に東大寺の重源の元で働いた工匠で、源実朝の渡宗船造営に関わっている。時代的に付合しない。また後世中国風の仏像を陳和卿作と称することが流行っているので信憑性はない(鎌倉市史・史料編34 史料番号346 pp.353-354、山田泰弘1976 pp.34-35)。 この棟札銘から判ることは、約300年後の江戸時代初期にはそう伝えられていたということだけである。
  97. ^ 裳(も)とも、腰巻き、巻スカートのようなもの。
  98. ^ 汗衫(かんさん)とも。シャツのようなもの。ただし片方の肩にひっかける。
  99. ^ 大衣は、インド仏教で修行僧が私有を許された三衣(さんえ、さんね)の一で、九条ないし二十五条のものをいう。
  100. ^ ただし全てが雌型に詰めて作ったとは思えず、単純な形の葉などは手作りして貼り付け、篦(へら)で筋を付けたようにも見られる(山田泰弘1976 p.108)。
  101. ^ 良く見ると鮮明な赤が現れているところがある。 ただし、通常展示の状態では判らず、ギャラリートークなどのときにペンライトで照らしてもらってやっと判るような小さいものである。 この赤は立像が造られたときから表面に現れていたものではなくて、全体に金泥を塗ったときに赤い下地の蔓の部分が白下地の他の部分とは違った鮮やかな黄金色となることを計算しての金箔の下地処理と考えられている(小口八郎1976 p.108)。
  102. ^ 新編相模国風土記稿(p.212) には「丸香炉」としてこの初音蒔絵火取母の絵が描かれており「天秀尼所蔵の品」とある。 この取材時点では寺側はそう説明したと思われる。他に「梨子地箱」とあるものは現存する。 「東照宮より天秀尼に賜う所なり」とされる葵の御紋の「香盆」の絵があるが、少なくとも宝蔵に展示されたことはない。
  103. ^ 1639年(寛永16年)の鎖国以降もオランダ、中国を通じて大量の漆器がヨーロッパに輸出されたが、その頃のものは様式が異なり「南蛮漆器」とは呼ばず「近世の輸出漆器」と呼ばれる。
  104. ^ 「新編相模国風土記稿」の東慶寺寺宝の中には出てこない(新編相模国風土記稿 pp.211-212)。 もっともそこに寺宝としてあげられたのは香合、香炉を中心とした8点だけである。 東慶寺は関東大震災で土蔵が倒壊するなどして多くが損傷・紛失したが、それでも現在60数点が残る。 先々代住職井上禅定は「恐らく異教の器物故手にふれず故意に書き上げなかったものであろう」と想像する(井上禅定1955 p.106)。 キリスト教の禁が解けたあとの1903年(明治36年)東慶寺「什器控」には「ぶどう模様丸弁当箱」とあるので、異教の器物とは認識されていなかった可能性もある。
  105. ^ 東慶寺旧蔵文書としては、他に郷土史家の小丸俊雄が入手した170通の旧蔵文書があり、鎌倉中央図書館に寄贈され現在は鎌倉国宝館に収蔵されている。 これは1950年(昭和25年)に小丸俊雄が鎌倉の経師屋から入手したものである。 経師屋の云うには亀ヶ谷の尼寺英勝寺から出てきたもので、関東大震災のときに既に無住であった英勝寺の倉が潰れて中の書付類が雨ざらしになっていたのを貰ってきたという。 荷車に二台、目方にして40貫(160kg)ぐらいあったというが、葉山の御用邸などの襖の裏貼に使ってしまい、残っていたのは風呂敷包みひとつ分であった(高木侃1997 pp.788-792)。 何で英勝寺にあったのかは判らない。 そのほか関東大震災直前に穂積重遠が翻刻した分が『離縁状と縁切寺』 ある。 それらの一部は『鎌倉市史・史料編』 に収録されているが、全体は『縁切寺東慶寺史料』にある。
  106. ^ 寺の公式サイトには「半跏像」とあるが、ここでは文化財指定名称にしたがい「坐像」とする。本像は右脚先を左腿に乗せていないため、厳密な意味の「半跏像」ではない。
  107. ^ 禅宗と律宗は対立するものではなく、むしろ蘭渓道隆は入宋中の泉涌寺四世の月翁智鏡との縁で日本に渡来して一時期は泉涌寺におり、蘭渓道隆は泉涌寺の僧と鎌倉に来た可能性が指摘されている(箱崎和久1999 p.114)。 律宗でも叡尊忍性ら南都律は日本の旧仏教の復興として起こり、宋とのつながりはあまりなく、仏像もインドから中国に渡り更に日本に伝わったという「三国伝来の釈迦像」嵯峨の清涼寺の仏像を模倣する。 「清凉寺式釈迦像」と呼ばれるものである(鎌倉の仏教1992 p.105)。
    それに対して泉涌寺俊芿からの北京律は南宋直輸入で、聖観音菩薩坐像(通称:楊貴妃観音像)、木造韋駄天立像、木造伝月蓋長者立像が南宋直輸入であるように仏像の様式は南宋風である。 当時の宗派は今のように固まったものではなく、特に俊芿の律宗は天台・真言・禅・浄土の四宗兼学で有名である(箱崎和久1999 p.124、鎌倉の仏教1992 p.94)。 蘭渓道隆とともに鎌倉に来たのかもしれないと思われているのは後に泉涌寺6世長老となる願行憲静(けんじょう)である。 あるいは建長寺の造営にあたって蘭渓道隆が泉涌寺に頼んで派遣してもらったのかもしれないが、いずれにせよ建長寺建築当時鎌倉におり、そして東寺五重塔大勧進ともなって建築工事管理に腕を振るい、北京大工・大蔵一族や、のちに関東でも活躍した物部氏鋳物師集団などの奈良・京都の工匠集団を率い、京と鎌倉を行き来しながら文化・技術の伝搬交流に大きな役割をはたしたと思われている。なお、憲静の外護者は霜月騒動で滅んだ安達泰盛、つまり開山覚山尼の父である(箱崎和久1999 p.117)。
    泉涌寺派律宗と鎌倉幕府との結びつきは、この願行憲静とその高弟智海心慧が大きな役割をはたす。 鎌倉の律宗は極楽寺の忍性(南都律)が有名だが、泉涌寺系(北京律)も智海心慧が開山覚山尼の子北条貞時の庇護のもとに覚園寺を開き、律宗は幕府の後ろ盾で全国に勢力を伸ばしていく。 なお、律宗は忍性非人救済がよく知られるが、そうした下層民への布教の結果、工人集団をも組織し、同時に東大寺大勧進としても工人集団も支配下に置く。その忍性の後の東大寺大勧進は覚園寺開山の智海心慧である。 智海心慧は1299年(正安元年)に泉涌寺、室生寺を含む13ヶ寺を幕府の祈祷所とすることを願い認められている(箱崎和久1999 p.118)。
  108. ^ ただし白衣観音的なリラックスした姿態の像は泉涌寺には残っていない。 木造聖観音立像にあるような土紋装飾もない。 盛上装飾に金箔の截金はある。
  109. ^ 京都泉涌寺の楊貴妃観音、韋駄天像、月蓋長者像、そして横須賀清雲寺の滝見観音像は南宋伝来のものである。 磐城禅長寺の滝見観音像は宋風の濃い観音像であるが、胎内造像銘から1410年(応永17年)仏師院尊作とされる。(小口八郎1976 p.112, p.114)

出典

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参考文献

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寺院・離縁状関連

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  • 石井良助『江戸の離婚―三行り半と縁切寺』日経新書、1965年。 
  • 井上禅定『駆入寺-松ヶ岡東慶寺の寺史と寺法』文藝春秋、1955年。 
  • 井上禅定『駆込寺-離婚いまとむかし』現代史出版会、1976年。 
  • 井上禅定『東慶寺と駆込女』有隣堂、1995年。 
  • 高木侃『三くだり半―江戸の離婚と女性たち・増補版』平凡社ライブラリー、1999年。 
  • 高木侃『三くだり半と縁切寺-江戸の離婚を読みなおす』講談社現代新書、1992年。 
  • 高木侃編『縁切寺東慶寺史料』平凡社、1997年。 
  • 高木侃『泣いて笑って三くだり半―女と男の縁切り作法』教育出版、2001年。 
  • 高木侃『徳川満徳寺-世界に二つの縁切寺』みやま文庫、2012年。 
  • 穂積重遠『離縁状と縁切寺』日本評論社、1942年。 
  • 五十嵐富夫『駈込寺―女人救済の尼寺』塙書房、1989年。 
  • 円覚寺史編、玉村竹二・井上禅定著『円覚寺史』春秋社、1964年。 
  • 三山進『太平寺滅亡―鎌倉尼五山秘話』有隣堂、1979年。 
  • 大森順雄『覚園寺と鎌倉律宗の研究』有隣堂、1991年。 
  • 貫達人・石井進(編)『鎌倉の仏教―中世都市の実像』有隣堂、1992年。 

史料

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  • 山田孝雄他・校注『日本古典文学大系〈第25〉今昔物語集四』岩波書店、1963年。 
  • 山田孝雄他・校注『日本古典文学大系〈第26〉今昔物語集五』岩波書店、1963年。 
  • 渡辺綱也・校注『日本古典文学大系〈第85〉沙石集』岩波書店、1966年。 
  • 永積安明池上洵一『今昔物語集5(口語訳)』平凡社、1968年。 
  • 中村修也『今昔物語集の人々 平安京篇』思文閣出版、2004年。 
  • 黒板勝美校訂『新訂増補国史大系(普及版)吾妻鏡・第2』吉川弘文館、1986年。 
  • 黒板勝美校訂『新訂増補国史大系(普及版)吾妻鏡・第3』吉川弘文館、1985年。 
  • 佐藤進一、池内義資編『中世法制史料集・第1巻』岩波書店、1955年。 
  • 鎌倉市史編纂委員会『鎌倉市史・総説編』吉川弘文館、1959年。 
  • 鎌倉市史編纂委員会『鎌倉市史・寺社編』吉川弘文館、1959年。 
  • 鎌倉市史編纂委員会『鎌倉市史・考古編』吉川弘文館、1959年。 
  • 鎌倉市史編纂委員会『鎌倉市史・史料編・第三第四』吉川弘文館、1958年。 
  • 神奈川県企画調査部県史編纂室『神奈川県史・史料編・資料編4近世(1)』神奈川県弘済会、1971年。 
  • 小田原市『小田原市史通史編・近世』小田原市、1999年。 
  • 松田毅一フロイスの日本覚書―日本とヨーロッパの風習の違い』中央公論社、1983年。 
  • 博文館編輯局編『武将感状記』博文館文庫、1941年。 
  • 白石克編『新編鎌倉志(貞享二刊)影印・解説・索引』汲古書院、2003年。 
  • 蘆田伊人編集校訂『新編相模国風土記稿・第四巻』雄山閣、1998年。 
  • 横山重監修『近世文学資料類従〈古板地誌編 12〉鎌倉物語・沢菴順礼鎌倉記』勉誠社、1975年。 
  • 近藤瓶城編『改定史籍集覧〈第26〉』臨川書店、1984年。 
  • 加藤友康、油井正臣編『日本史文献解題辞典』吉川弘文館、2000年。 
  • 韮山郷土資料館・足利直義寄進状』韮山郷土資料館、1339年。 

工芸・建築史関連

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  • 荒川浩和『カラーブックス・漆工芸』保育社、1982年。 
  • 関口欣也『鎌倉の古建築』有隣堂、1997年。 
  • 工藤圭章他『円覚寺舎利殿(不滅の建築.7)』毎日新聞社、1988年。 
  • 西和夫『三渓園の建築と原三渓』有隣堂、2012年。 
  • 藤田盟児他『シリーズ都市・建築・歴史3 中世的空間と儀礼』東京大学出版会、2005年。 
  • 五島美術館『鎌倉円覚寺の名宝』五島美術館、2006年。 
  • 『没後750年記念特別展・北条時頼とその時代』鎌倉国宝館、2013年。 
  • 千宗屋『茶―利休と今をつなぐ』新潮新書、2010年。 
  • 鎌倉市教育委員会社会教育課『鎌倉の文化財 第三集 鎌倉市指定編』鎌倉市、1972年。 
  • 箱崎和久 「北京律宗僧の活動からみた鎌倉の寺院と建築」『建築史の空間』中央公論美術出版、1999年。 

民俗学関連書籍

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  • 長田かな子『相模野に生きた女たち―古文書にみる江戸時代の農村』有隣堂、2001年。 
  • 宮本常一『絵巻物に見る日本庶民生活誌』中央公論新社、1981年。 
  • 宮本常一『忘れられた日本人』岩波文庫、1984年。 
  • 宮本常一『家郷の訓』岩波文庫、1984年。 
  • 宮本常一『庶民の発見』講談社、1987年。 
  • 宮本常一『女の民俗誌』岩波現代文庫、2001年。 

その他歴史学書籍

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  • 網野善彦『無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和』平凡社選書、1978年。 
  • 網野善彦『中世の非人と遊女』講談社学術文庫、2005年。 
  • 網野善彦『日本の歴史をよみなおす (全)』ちくま学芸文庫、2005年。 
  • 井上清『日本女性史』三一書房、1949年。 
  • 石井進『日本の中世〈1〉中世のかたち』中央公論新社、2002年。 
  • 田端泰子細川涼一『日本の中世〈4〉女人、老人、子ども』中央公論新社、2002年。 
  • 佐藤常雄、大石慎三郎『貧農史観を見直す』講談社、1995年。 
  • 笠谷和比古 「習俗の法制化」『岩波講座 日本通史〈第13巻〉近世3』岩波書店、1994年。 
  • 鈴木ゆり子 「百姓の家と家族」『岩波講座 日本通史〈第12巻〉近世2』岩波書店、1994年。 
  • 永原慶二編『シンポジウム日本歴史7-中世国家論』学生社、1974年。 
  • 渡辺尚志『百姓たちの江戸時代』筑摩書房 (ちくまプリマー新書)、2009年。 
  • 藤原良章『中世の道を探る』高志書房、2004年。 

定期刊行物・紀要

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関連項目

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外部リンク

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