木幡
京都府宇治市の地名
概要
編集古代の木幡は山城国宇治郡から紀伊郡にかけての広域をさす地名であったが、平安時代後期には宇治郡内だけをさすようになり,近世には同郡木幡村が成立して範域が固定した。
平安時代中期から後期にかけて、木幡に藤原北家の人々が葬られた墓地が造営された。その中には摂政・関白経験者だけでなく、天皇の后妃や生母になった女性も含まれていることから、総称して宇治陵と称された。また、藤原道長も宇治陵の中に浄妙寺を建立し、自らもその周囲に葬られたとされている。しかし、今日では浄妙寺も埋葬に関する記録も喪われていることから、宇治陵の何処に誰が埋葬されているのか、既に破壊された墓地も含めてどれ位の人々が葬られたのかも不明となっており、浄妙寺の跡地と推定される宇治市立木幡小学校とその周辺の住宅地のどこかに眠っているという推測以上のことは不明となっている。
式内社(名神大社)に比定されている許波多神社が木幡と五ヶ庄の隣接する2つの地区にある。また、古代木幡の北部に位置する桃山丘陵は、豊臣秀吉が伏見城を築城するまでは木幡山と呼ばれていた。