昭和高等女学校
昭和高等女学校 (しょうわこうとうじょがっこう) は、1932年(昭和7年)に沖縄県那覇市崇元寺町(現泊)の崇元寺に隣接して開設された私立の女学校で、山梨県出身の教育者、八巻太一が開設した。良妻賢母の育成を主眼にした当時の女学校教育の中で[1]、人格教育とともに商店・会社・銀行の事務員養成を目指した女子実業教育の私立女校の設立は先駆的なものであった。しかし1945年の沖縄戦で戦禍に巻き込まれ、設立から13年で消滅した。
昭和高等女学校
編集1930年、崇元寺の近く、安里川の川岸と背後の梯梧 (デイゴ) 並木に挟まれた地所に沖縄昭和女学校が設立される。和裁、洋裁の他に、そろばんや簿記、和文・英文タイプなどの商業科目がある4年生で実業教育を行った[2]。1940年の沖縄県統計書では、職員12人、在学生177人、入学生91人、卒業生57人と記録されている[3]。
沖縄県営鉄道輸送弾薬爆発事故
編集1944年12月11日、嘉手納駅から糸満駅に向かう沖縄県営鉄道 (通称「ケービン」)が大量の弾薬を輸送している途中に引火して大爆発を起こし、200名以上もの兵士らが犠牲となった事件では、昭和高等女学校の生徒数人も犠牲となった。ひどいやけどを負いながらも奇跡的に生き残った当時の女学生の証言によると、弾薬が七両編成の荷台に大量に積まれているだけではなく、機関車のすぐ後ろにガソリンを入れたドラム缶約20本が積まれており[4]、こうした日本軍のずさんな弾薬管理で、機関室の火が飛んで引火したのではないかと考えられている。保障はおろか、事件後に厳しいかん口令が敷かれたまま、全土が沖縄戦に巻き込まれていくことになる[5]。
でいご学徒隊
編集やがて校舎は軍の弾薬庫として接収され、崇元寺の境内に仮の校舎が設けられた。12期生31人はそこで石部隊野戦病院の軍医らから救急措置を学んだ。彼女たちは崇元寺の梯梧並木と梯梧 (デイゴ) の花をあしらった校章から戦後に「梯梧隊」と呼ばれるようになる。
1945年3月6日、第61師団(石部隊)の首里赤田町にある石部隊病院壕に看護隊として配属、民間の家に宿泊しながら実習を学んだ。
3月26日、当時4年生の17人は7班と8班として石部隊病院壕から南風原町新川のナゲーラ壕に移動した。1班から6班までは首里高等女学校の瑞泉学徒隊で構成されていた。4月半ばには壕内の収容能力をしのぐほど大勢の傷病兵が送られてきた。そのため8班は識名の自然壕へ派遣された。敷名の壕にいた住民は追いだされている。
8班が派遣された識名の自然壕では、5月13日、外で炸裂した爆弾の破片が壕内の手榴弾にあたり、2人の学徒が無残な死を遂げた。29日、識名の野戦病院は南下を始める。阿波根、伊原、米須と転々と砲弾の中を彷徨い[6]、伊原の壕は石灰岩がもろく爆撃で落盤、四散するなかでさらに爆撃、落盤が続き、6月19日、砲弾の飛び交う中解散命令が下される。7班からは3人、8班からは5人、17人中8人が亡くなった[7]。
女子学徒隊は米軍の捕虜になってからも学校や孤児院や病院の奉仕に回された。梯梧学徒隊の8班だった稲福マサは南部の死の淵をさまよい、最終的に捕虜となって百名収容所に送られる。そこで百名孤児院の孤児たちの世話係となる。
長いこと、アメリカに対して敵愾心を持っていましたね。本当に殺してやりたいという気持ちを持ってましたけれど、孤児院に行って変わった変わった。ある将校さんがね、汚れた子どもをだっこして、私たちも手を付けきれないですよ。あれを見てアメリカは違うなって思った。日本兵はね。上等兵が、普通の兵隊並べて、理由なく殴ったりするでしょ、そういうの私達は見ているんですよ。でもアメリカ兵は見たこと無い。日本軍は、すぐ手を出すでしょ。識名の壕で初瀬隊長がいらしたとき、いらっしゃることを誰も知らないんですよ。… 治療班の班長ですよ治療してるのにね、後ろに回って立っていたんです。誰も気が付かない。後で「おれを立たして、お前は座れるのか」って言うんえすよ。ピンタ張ってね。倒れたんです、この班長は … 立って、不動の姿勢。又ピンタ、倒れて、又不動の姿勢…これを3回もやって…ここに百名あまりの患者がいます。負傷兵の前でああいう事するってことは侮辱じゃぁないですか。日本の上官は、人間と見てないのよ。ああいうのを見ていたから、… あれは日本の習慣かね。入隊するとすぐにピンタ張る。習慣になっている。 — 戦場体験史料館 稲福マサさん証言
八巻太一
編集山梨県北巨摩郡江草村(現北杜市須玉町江草)出身の教育者、八巻太一は、商家の長男として育ち、山梨県師範学校を卒業後、教職に就く。1911年、師範学校の元校長の勧めで33歳で妻子をつれて沖縄に移住。当時の政府がめざす沖縄での同化政策、「皇国ノ道ニ則ル国民の錬成」をめざす皇民化教育の一環として、本土から多くの教育者が流入した時代だった。読谷山小学校校長として赴任した後、沖縄県立第一高等女学校を50歳で定年退職すると、恩給を前借し資金を工面して女学校を立ち上げた[8]。また女学校を高等女学校に昇格するために地元山梨の地元での支援も広がった。八巻は女子の実業教育の重要さを盛んに訴えた。男女の教育格差は健全な社会の発展を妨げることになると主張した。
男女の中等教育が、斯の如き差を生ずる事は本県の社会状態が不調和の発達不健全の社会が形成せられる事になるのは火を見るよりも明瞭 — 山梨日日新聞「続・山梨の先人 18 教育者 八巻太一」2021年7月6日より引用
また、沖縄県立第一高等女学校の教員時代には、沖縄語を使って会話したために校長室に立たされている女子学生をかばい、沖縄人がウチナーグチを使って何が悪いのかと抗議したこともあったという。 戦後は沖縄に残り、昭和高女再建のために奔走したがかなわないまま、久米島でキリスト教の伝道に関わった[8]。
その他
編集梯梧之塔
編集糸満市伊原に建立されている慰霊碑「梯梧之塔」。沖縄戦で亡くなった梯梧学徒隊の9名、職員3名、生徒50名の計62名の名前が刻まれている。
参考項目
編集戦争証言
編集戦場体験史料館 梯梧学徒隊 稲福マサさん
脚注
編集- ^ “コラム3 高等女学校における良妻賢母教育 | 内閣府男女共同参画局”. www.gender.go.jp. 2024年3月2日閲覧。
- ^ 青春を語る会『沖縄戦の全女子学徒隊』フォレスト 2006年 181-182頁
- ^ 琉球新報「戦禍を掘る・昭和高等女学校 ~ 野戦病院で看護隊 ~ 卒業証書もらえずじまい」1984年8月7日掲載
- ^ 琉球新報社 (2020年12月11日). “軽便鉄道爆発「青春なくなった」91歳に深い傷 76年前の弾薬爆発、友も犠牲 軍は公にせず”. 琉球新報デジタル. 2024年3月23日閲覧。
- ^ 国立図書館 共同リファレンス 「戦時中に起きた沖縄県営鉄道輸送弾薬爆発事故について」
- ^ “稲福マサさん”. 戦場体験史料館(ブログ版). 2024年3月2日閲覧。
- ^ 琉球新報「戦禍を掘る・昭和高等女学校 ~ 生きて腐る負傷兵 ~ 死と隣り合わせの看護」1984年8月8日掲載
- ^ a b 山梨日日新聞「続・山梨の先人 18 教育者 八巻太一」2021年7月6日 pdf