志佐要一郎
志佐 要一郎(しさ よういちろう、天保12年(1841年) - 明治10年(1877年)7月24日)は幕末の平戸藩士、不平士族。幼名は源太郎、通称は岡右衛門[1]。維新後中山尚之介等と政体改革を謀り、国事犯として捕らえられ、獄死した。
志佐 要一郎 | |
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通称 | 岡右衛門 |
生年 | 天保12年(1841年) |
生地 | 肥前国松浦郡平戸島 |
没年 | 明治10年6月14日(1877年7月24日) |
没地 | 東京府佃島監獄 |
思想 | 征韓論 |
活動 | 士族反乱 |
藩 | 平戸藩 |
裁判 | 大審院 |
影響を与えたもの | 浦敬一 |
生涯
編集平戸藩出仕
編集安政5年(1858年)1月16日大内蔵組に入り、安政6年(1859年)6月20日家督相続、万延元年(1860年)1月22日名代役、閏3月24日近習となり、文久2年(1862年)1月11日藩主松浦詮の秋の参勤交代へ御供を命じられた[1]。
慶応元年(1865年)11月14日鞍掛馬十郎と筑前国方面へ派遣され、20日土方久元に面会したほか[2]、薩摩藩等の動向を探った[1]。
上京
編集明治6年(1873年)5月平戸藩常平社の奨学金を受けて[3]東京の情勢を伺うため田村成之等と上京し、柳原町二丁目1番地松浦詮邸に滞在した[4]。
明治7年(1874年)1月佐賀の乱を受けて一旦帰郷し、鹿児島県で中山尚之介、五代競太と知り合い、4月帰京した[4]。
逮捕
編集明治8年(1875年)9月江華島事件を受けて征韓論が高まる中、島村安度、河原塚茂太郎、中山尚之介、中沼精蔵、山本克と会し、朝鮮征討の先鋒を称して同志を集め、政府に政体改革を迫ることを話し合った[4]。その後中山尚之介、児玉等から木戸孝允、大久保利通の刺殺計画を聞き、東京に滞在して事変を待ち構えていたところ、明治9年(1876年)2月7日拘引された[4]。5月12日大審院により士族身分剥奪、懲役2年206日が言い渡され、旧暦6月14日佃島監獄で病没した[1]。
脚注
編集参考文献
編集- 塙薫蔵『浦敬一』淳風書院、1924年。NDLJP:978764/29
- 『平戸郷土誌』平戸尋常高等小学校、1917年。NDLJP:951629/149
- 『松浦詮伯伝』松浦伯爵家編修所、1930年。NDLJP:1880366/249
- 「鹿児島県士族中山中左衛門等犯罪処断」『太政類典』第2編第351巻第6類 - 国立公文書館デジタルアーカイブ