徳大寺実祖
徳大寺 実祖(とくだいじ さねさき)は、江戸時代中期から後期にかけての公卿。内大臣・西園寺公晃の次男(三男とも)。権大納言・徳大寺公城の養子。官位は従一位、右大臣。
時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 宝暦3年1月6日(1753年2月8日) |
死没 | 文政2年1月28日(1819年2月22日) |
改名 | 季繁(初名)→実祖 |
別名 | 号:摩尼珠院 |
官位 | 従一位、右大臣 |
主君 | 桃園天皇→後桜町天皇→後桃園天皇→光格天皇 |
氏族 | 西園寺家→徳大寺家 |
父母 |
父:西園寺公晃、母:今出川伊季の娘 養父:徳大寺公城 |
兄弟 | 西園寺賞季、実祖、今出川実種 |
子 | 公迪、清水谷実揖、実繁、泰君[1] |
経歴
編集京都にて誕生。宝暦7年(1757年)に叙爵。宝暦10年(1760年)に徳大寺家に養子に入った。その後、侍従・右近衛権少将・左近衛権中将を経て、安永2年(1773年)に権中納言、安永3年(1774年)に後桜町上皇の院御厩別当となる。安永5年(1776年)には踏歌節会外弁を務める。
安永8年(1779年)に権大納言就任。天明6年(1786年)に大歌所別当となる。寛政6年(1794年)に光格天皇の中宮欣子内親王の中宮大夫に就任。寛政9年(1797年)には右近衛大将・右馬寮御監に転じた。寛政10年(1798年)内大臣に任ぜられるも辞す。寛政12年(1800年)に従一位を授与された。文化12年(1815年)右大臣に任じられるも辞す。