彭城貞徳
彭城 貞徳(さかき ていとく、安政5年2月11日(1858年3月25日) - 昭和14年(1939年)1月4日)は明治時代から昭和時代にかけての洋画家、石版画家[1]。
略歴
編集安政5年(1858年)に長崎に唐通事の家に生まれた。本名は森元貞徳。10代目唐通事になるべく教育をうけたが、明治維新によりその役目は終焉となる。明治5年(1872年)に上京、高橋由一に師事して洋画を学んだ。明治9年(1876年)に工部美術学校に入学。アントニオ・フォンタネージに師事した後、一時、玄々堂において石版製作に従った。明治26年(1893年)から明治33年(1900年)、アメリカ合衆国とヨーロッパに遊学、イギリスでは図案家として働いた。帰国後、鎮西学院などにおいて教え、画塾を開いた。晩年は家業の海産問屋に戻った。代表作に「和洋合奏之図」が挙げられる。昭和14年(1939年)、82歳で没す。
作品
編集- 「和洋合奏之図」 油彩・キャンバス 長崎県美術館所蔵
- 「富士山之図」 油彩・キャンバス 長崎県美術館所蔵
- 「九十九島・月夜の景」 油彩・板 長崎県美術館所蔵
出典
編集- ^ 日本人名大辞典+Plus, デジタル版. “彭城貞徳(さかき ていとく)とは - コトバンク”. コトバンク. 2018年11月17日閲覧。