廖 昇(りょう しょう、生年不詳 - 1402年)は、明代官僚本貫襄陽府襄陽県

生涯

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学問と品行で名を知られ、方孝孺王紳と仲が良かった。洪武末年、左府断事から太常寺少卿に抜擢された。建文初年、『太祖実録』の編纂にあたり、董倫王景が総裁官となると、廖昇は高遜志とともに副総裁官となった。靖難の変が起こり、1402年(建文4年)6月に燕王朱棣の軍が長江を渡ると、建文政権は燕王に土地を割譲する条件で講和を図ったが、燕王に拒否された。廖昇はこれを聞いて慟哭し、家人と別れを告げ、自ら縊死した。建文帝に殉じた諸臣の最初のひとりであった。後に陳瑛が永楽帝(朱棣)に逆らって死んだ諸臣に追って恥辱を加えるよう請願したとき、その筆頭に挙げられたのが廖昇であった。

参考文献

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  • 明史』巻143 列伝第31