島津隼彦
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島津 隼彦(しまづ はやひこ、1879年〈明治12年〉8月31日[1] - 1936年〈昭和11年〉6月5日[2])は、日本の政治家、華族(男爵)。島津忠欽の次男で、母は島津忠冬の長女・巖。先妻は北郷久政(島津久本の子)の長女。後妻は戸沢正実の娘・よし。位階は従三位[3]。勲等は勲四等[3]。
島津隼彦 しまづ はやひこ | |
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生年月日 | 1879年8月31日 |
出生地 | 日本 鹿児島県鹿児島市 |
没年月日 | 1936年6月5日(56歳没) |
出身校 |
帝国大学法科大学中退 学習院高等科卒業 (現・学習院大学) |
前職 |
第百四十七銀行取締役 (現・鹿児島銀行) |
称号 |
従三位 勲四等 |
配偶者 |
島津いえ 島津慶 |
親族 |
父・島津忠欽(貴族院議員) 義弟・牧野一成(貴族院議員) 義弟・米津政賢(貴族院議員) 伯父・島津忠義(貴族院議員) 伯父・島津珍彦(貴族院議員) 叔父・島津忠済(貴族院議員) 甥・島津忠彦(参議院議員) 従兄・島津長丸(貴族院議員) 従弟・島津忠重(貴族院議員) 従弟・島津忠承(貴族院議員) |
在任期間 | 1911年7月10日 - 1918年7月9日 |
略歴
編集鹿児島市生まれ[1]。1896年(明治29年)9月に今和泉島津家の家督を父忠欽から譲られた。忠欽は今和泉家の籍に隼彦を残し、巌や隼彦の兄の雄五郎など他の子たち共々、祖父久光の家である玉里島津家の分家を新たに立て、また同年12月に男爵を叙爵。1898年(明治31年)、学習院に入った[1][注釈 1]。1900年(明治33年)隼彦も男爵を叙爵した。1902年(明治35年)9月、帝国大学法科大学に入学した[5]。しかし、1904年(明治37年)に退学した[5]。1909年(明治42年)第百四十七銀行取締役に就任[2]。
1911年(明治44年)7月10日、貴族院男爵議員に当選し[6]、1918年(大正7年)7月9日まで1期在任した[2]。
家系
編集- 父:島津忠欽(1845-1915)
- 母:巌(1845-1901)-島津忠冬娘
- 先妻:北郷いえ(1883-1910)-北郷久政の娘
- 後妻:慶(1882-1915)-戸沢正実の娘
- 四女:満 (1912年9月-不明)
- 次男:久則 (1914年10月-不明)
- 妻:日高シモ - 鹿児島出身
- 庶子:久治 (1916年12月-不明)
- 庶子:久弘 (1918年11月-1949)
- 庶子:久近 (1920年10月-1946)
- 庶子:正子 (1922年1月-1945)
- 庶子:光彦 (1923年1月-1945)
- 庶子:明彦 (1925年9月-1944)
- 庶子:重子 (1926年11月-不明)-藤安祥造の妻
- 庶子:英彦 (1931-1992)
栄典
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集参考文献
編集- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『角川日本姓氏歴史人物大辞典 鹿児島県姓氏家系大辞典』鹿児島県姓氏家系大辞典編纂委員会、角川書店、1994年。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
男爵 (今和泉)島津家初代 1900年 - 1936年 |
次代 島津忠親 |