島津忠承

日本の華族、政治家。(1903-1990)

島津 忠承(しまづ ただつぐ、1903年明治36年〉5月19日 - 1990年平成2年〉8月26日)は、日本華族玉里島津家第3代当主。位階勲等爵位正三位勲一等公爵。第8代日本赤十字社社長、結核予防会会長などを歴任した。

島津 忠承
しまづ ただつぐ
貴族院公爵議員・島津忠承
生年月日 1903年5月19日
没年月日 (1990-08-26) 1990年8月26日(87歳没)
出身校 京都帝国大学
称号 正三位
勲一等旭日大綬章
公爵
配偶者 島津泰子
子女 島津忠広(長男)
親族 父・島津忠済(元貴族院議員)
伯父・島津忠義(元貴族院議員)
伯父・島津珍彦(元貴族院議員)
伯父・島津忠欽(元貴族院議員)
伯父・竹内惟忠(元貴族院議員)
義兄・小松輝久(元貴族院議員)
義弟・久邇邦久(元貴族院議員)
従兄・島津長丸(元貴族院議員)
従兄・島津隼彦(元貴族院議員)
従兄・島津忠重(元貴族院議員)
三従兄・近衛文麿(第34・38-39代内閣総理大臣

選挙区公爵議員
在任期間 1933年5月18日 - 1947年5月2日
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略伝

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公爵議員として貴族院議員を長年務める。また、日本赤十字社副社長を経て、1946年(昭和21年)から日本赤十字社社長を務め、当時国交断絶していたソビエト連邦中華人民共和国に残留した日本人の救出に尽力した。また、1946年(昭和21年)には結核予防会の副会長から会長に昇任したた[1]1965年(昭和40年)の献血事業に関わる職員の汚職事件の責任をとり、辞任に追い込まれた。1987年(昭和62年)、高松宮宣仁親王斂葬儀の司祭長に就任。墓所は文京区護国寺

経歴

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栄典

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外国勲章佩用允許

家族

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家族と共に(1949年)

長男・忠広の夫人、肇子は北白川宮永久王同妃祥子の第1王女子で、三女・慶子は北白川宮家当主の北白川道久(婚姻当時は既に皇籍離脱していた)に嫁いだことから、忠広と慶子の配偶者はそれぞれ同じ北白川宮家の兄妹になる。

脚注

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  1. ^ 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、570-571頁。ISBN 978-4-06-288001-5 
  2. ^ 『私の履歴書 第14集』p.99
  3. ^ 『私の履歴書 第14集』pp.100-105
  4. ^ 『私の履歴書 第14集』p.102
  5. ^ a b 『私の履歴書 第14集』p.105
  6. ^ 『私の履歴書 第14集』p.106
  7. ^ 『私の履歴書 第14集』p.124
  8. ^ 『私の履歴書 第14集』p.129
  9. ^ 『私の履歴書 第14集』p.131
  10. ^ 『私の履歴書 第14集』p.149
  11. ^ 『官報』第1144号「彙報 - 褒賞」1916年5月26日。
  12. ^ 『官報』第1647号・付録「辞令」1918年1月31日。
  13. ^ 『官報』第1474号「彙報 - 褒賞」1917年6月30日。
  14. ^ 『官報』第2075号「彙報 - 褒賞」1919年7月5日。
  15. ^ 『官報』第2486号「彙報 - 褒賞」1920年11月13日。
  16. ^ 『官報』第3249号「叙任及辞令」1923年5月31日。
  17. ^ 『官報』第3920号「叙任及辞令」1925年9月16日。
  18. ^ 『官報』第3957号「彙報 - 褒賞」1925年11月2日。
  19. ^ 『官報』第530号「叙任及辞令」1928年09月29日。
  20. ^ 『官報』第1670号「叙任及辞令」1932年7月25日。
  21. ^ 『官報』第2696号・付録「叙任及辞令二」1935年12月27日。
  22. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
  23. ^ 『官報』第4601号「叙任及辞令」1942年5月15日。
  24. ^ 『官報』第5063号「叙任及辞令」1943年11月27日。
  25. ^ 『官報』第2511号・付録「辞令二」1935年5月20日。
  26. ^ 『官報』第2866号・付録「辞令二」1936年7月22日。
  27. ^ 『官報』第5060号・付録「辞令二」1943年11月24日。
  28. ^ a b c d e 『島津久光 ー玉里島津公爵家ー』”. 近代名士家系大観. 2022年12月28日閲覧。

参考文献

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外部リンク

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日本の爵位
先代
島津忠済
公爵
(玉里)島津家第3代
1915年 - 1947年
次代
華族制度廃止