島津久本
島津 久本(しまづ ひさもと)は、江戸時代後期から末期の薩摩藩士。都城私領主である都城島津家24代当主。
時代 | 江戸時代後期 - 末期(幕末) |
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生誕 | 享和3年(1803年) |
死没 | 明治元年9月13日(1868年10月28日) |
改名 | 久広(幼名)→久本 |
別名 | 播磨、豊前(通称) |
墓所 | 宮崎県都城市都島町の都城島津家墓地 |
官位 | 贈従四位 |
主君 | 島津斉興→斉彬 |
藩 | 薩摩藩都城私領主 |
氏族 | 都城島津家 |
父母 | 父:島津久統、母:広(島津久尹の娘) |
兄弟 | 岩、久本、鶴(島津久寛正室)、資将 |
妻 | 正室:喜代(島津久長の娘) |
子 |
岩次郎、甲(島津久福正室)、久静、 謹之進、尋(北郷久徳正室)、新納資致、 北郷資恭、北郷久政、川上資充 |
天保5年(1835年)、農業推進のため百姓寄合田の制度をはじめる。共同農地を設け複数の農家に耕させ、その収益を労役負担に役立たせようとする制度で、周王朝の井田制を手本にしたと思われる。
西洋砲術を導入し、牛痘を行ったり、積極的に産業の育成に努めたりした。
藩主島津斉彬より東目海岸防御総頭取(大隅半島の沿岸防御指揮官)に任じられた。
安政3年(1856年)、息子の久静に家督を譲ったが、久静は島津久光の命で上京した際に病死した。新たに当主となった孫の久寛はまだ幼かったため、再び久本が政務を見た。そのため、幕末の都城を取り仕切ったのは事実上久本といえる。
脚注
編集- ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.34