岐阜市立島小学校
岐阜県岐阜市にある小学校
岐阜市立島小学校(ぎふしりつ しましょうがっこう)は、岐阜県岐阜市北島にある公立小学校。
岐阜市立島小学校 | |
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北緯35度25分45.73秒 東経136度44分5.5秒 / 北緯35.4293694度 東経136.734861度座標: 北緯35度25分45.73秒 東経136度44分5.5秒 / 北緯35.4293694度 東経136.734861度 | |
過去の名称 |
島尋常小学校 島尋常高等小学校 島国民学校 |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 岐阜市 |
併合学校 |
東島尋常小学校 近島尋常小学校 西島尋常小学校 旦島尋常小学校 萱場尋常小学校 早田尋常小学校[注釈 1] |
設立年月日 | 1897年 |
共学・別学 | 男女共学 |
学期 | 2学期制 |
学校コード | B121220100101 |
所在地 | 〒502-0911 |
岐阜県岐阜市北島7-6-12 | |
外部リンク | 公式サイト |
ウィキポータル 教育 ウィキプロジェクト 学校 |
概要
編集学校の東門にはシンボルとして、大銀杏(おおいちょう)・小銀杏(こいちょう)の木が立っている。大銀杏は2020年現在で140年以上存在しており、4階建ての本校舎の高さにまで延びている。[1]
沿革
編集- 統合前
- 1873年(明治6年)4月 - 東島村に集成学校、近島村に含秀学校、早田村に正修学校が開校する。
- 1875年(明治8年) - 含秀学校が集成学校に統合される。
- 1877年(明治10年) -
- 1879年(明治12年) - 萱場分教場と旦島分教場が統合・独立し、静倹学校となる。
- 1880年(明治13年) - 集成学校が島潟学校に改称する。
- 1881年(明治14年) - 島潟学校から若木村[注釈 2]が離脱し、若木学校が発足。
- 1887年(明治20年) -
- 膏雨学校[注釈 3]が早田尋常小学校に改称する。
- 八宝学校が西島尋常小学校に改称する。
- 1891年(明治24年) - 静倹学校が旦島尋常小学校に改称する。
- 1893年(明治26年) - 旦島尋常小学校から萱場尋常小学校が分立する。
- 1895年(明治28年) - 島潟学校が東島尋常小学校、若木学校が近島尋常小学校に改称する。
- 1897年(明治30年) -
- 統合後
- 1900年(明治33年) - 島尋常高等小学校に改称する。
- 1901年(明治34年) - 現在地に統合校舎が完成。分教室(東島・近島・西島・旦島・萱場・早田)を廃止。早田に早田分教場を設置。
- 1934年(昭和9年)12月5日 - 島村が岐阜市に編入される。
- 1941年(昭和16年) - 島国民学校に改称する。
- 1947年(昭和22年) - 岐阜市立島小学校に改称。早田分教場を早田分校に改称。
- 1956年(昭和31年) - 早田分校が岐阜市立早田小学校として独立する。
- 1965年(昭和40年) - 校舎(鉄筋コンクリート造)が完成。以後、1966年、1967年、1969年に新築・増築が行われる。
- 1971年(昭和46年) - 岐阜市立城西小学校が分立する。
- 2023年 (令和5年) - 新たに児童放課後クラブ設立のため遊具エリアを解体し、そこから新たな校舎を建てた。
行事
編集校区
編集- 池ノ上町1~4丁目、江口、島栄町2・3丁目、島新町1丁目、白菊町2丁目(6~14番、24~82番)・3丁目(1~13番、26~29番)・4丁目(5~9番、39~42番)・5丁目(1~5番)・6丁目(19番)、菅生、旦島(国道157号線以南の区域)、西中島、東島、江口1・2丁目、北島1~9丁目、近島1~5丁目、菅生1~8丁目、西島町、旦島1~6丁目、西中島1~7丁目、島田1・2丁目、東島1~5丁目、島新町、一日市場北町(1番、2番2~18号、3番3~23号、4番、5番、6番4~20号、7番、8番、9番7~8号、12番を除く)[2]
進学先中学校
編集周辺施設
編集交通アクセス
編集- モレラ忠節線、大野忠節線、西郷線「島小学校前」より徒歩約5分
参考文献
編集- 島郷土史(1978年発行)
- 岐阜市史 史料編 現代Ⅱ 第2巻(岐阜市 2019年)P.71
脚注
編集出典
編集- ^ “ようこそ島小学校ホームページへ”. 岐阜市立島小学校. 2020年10月7日閲覧。[リンク切れ]
- ^ “岐阜市立小・中学校及び高等学校通学区域に関する規則”. 岐阜市教育委員会. 2020年10月7日閲覧。