小鷹狩元凱
小鷹狩 元凱(こたかり もとよし)は明治時代の軍人、政治家、郷土史家。号は預園、後に弘洲[1]。旧広島藩士。維新後陸軍に出仕して徴兵事務に携わり、大尉まで進むも、薩長による藩閥に反発して立憲改進党に入党し、自由民権運動に携わった。帝国議会開設後、度々衆議院議員総選挙に出馬するも苦戦し、一期務めたのみで引退、晩年は芸備協会での育英事業に専念し、また広島の藩政時代等についての事跡を書き残した。
小鷹狩元凱 こたかり もとよし | |
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88歳時 | |
生年月日 | 弘化3年3月8日(1846年4月3日) |
出生地 | 安芸国安芸郡広島城下白島九軒町 |
没年月日 | 昭和9年(1934年)1月18日 |
死没地 | 東京府東京市世田谷区上北沢町三丁目877番地 |
出身校 | 広島藩学問所(現:修道中学校・高等学校) |
前職 | 政党職員 |
所属政党 | 立憲改進党、進歩党 |
称号 | 正七位 |
配偶者 | 小鷹狩清子 |
選挙区 | 広島県第2区 |
当選回数 | 1 |
在任期間 | 明治27年(1894年)9月1日 - 明治30年(1897年)12月25日 |
生涯
編集生い立ち
編集弘化3年3月8日(1846年)、安芸国広島城下白島九軒町に広島藩士・山下平八郎の五男として生まれた[2]。
安政2年(1855年)3月15日登島養介に書道、9月23日植田兼山に『論語』、安政3年(1856年)11月3日平木順次郎に漢籍、安政6年(1859年)2月8日石井翼山に書道、3月関留之介に剣術を学んだ[3]。万延元年(1860年)広島藩校学問所(現:修道中学校・高等学校)で梅園介庵、山田十竹に漢籍を学んだ[2]。
広島藩出仕
編集慶応元年(1865年)藩校学問所(現:修道中学校・高等学校)句読師となった[3]。藩主浅野長勲が学問所に国学者野々口隆正を招き、『古事記』講義を行った際、その筆記を命じられた[2]。
慶応3年(1867年)9月、湯川貫一と共に仏護寺に同仇隊を結成し、学問所副奉行塚本小八郎を隊長に迎えた[2]。慶応3年(1867年)10月15日藩主護衛のため上京を命じられ[3]、京都では兵部卿山階宮晃親王の下で兵部省権判事を務め、明治元年(1868年)2月堺事件の事後処理に随行しフランス軍艦に乗船するなどし[4]、明治元年(1868年)4月17日帰藩した[3]。
明治4年(1871年)学問所助教となり[5]、明治4年(1871年)冬、山田十竹が広島最初の新聞『日注雑記』を発刊すると、木原章六等とこれを助け[2]、明治5年(1872年)12月10日広島県新聞局に就職した[3]。
陸軍出仕
編集明治6年(1873年)2月25日陸軍歩兵少尉として東京鎮台出仕を命じられ、4月11日上京し、徴兵事務に携わった[3]。第五師団長野津道貫の信任を得て[5]、明治8年(1875年)8月10日中尉、明治12年(1879年)3月28日大尉に昇った[3]。
しかし、薩長藩閥による旧広島藩士の冷遇に不満を募らせ、明治14年(1881年)明治十四年の政変に感化されて藤田高之、野村文夫、米田精、呉文聡等と下野を決意し[1]、12月22日退役[2]、麹町区隼町の住居を売却し、借家生活に入った[1]。
政治活動
編集明治13年(1880年)8月23日、広島県出身者9名で興芸社を創立し、資金を出し合って県出身の学生に奨学金を貸与した[6]。後に興芸東社となり、幹事、文書及会計係、専務理事を歴任した[6]。
明治15年(1882年)1月23日藤田高之、米田精と共に帰郷し、4月16日立憲改進党に入党[3]、実際事務及会計、常置委員、事務員等を担当しながら、東京と広島を頻繁に往復し、演説活動を行った[2]。
明治20年(1887年)2月、新聞で山陽鉄道による神戸馬関間の敷設計画を知り[5]、上京中の広島県知事千田貞暁に対し、広島県区間は広島県の人間で敷設することを主張[5]、事業を嘱託されて芸備鉄道の設立を計画したが[2]、最終的に、沿線各県から発起人を出し、山陽鉄道の株を分け持つこととなった[5]。明治21年(1888年)、県が事業中の宇品港埋立地について、財政難のため他県の民間人へ売却する話を聞き、知事に広島区への売却を提案し、採用された[5]。
明治25年(1892年)春、第2回衆議院議員総選挙における政府の選挙干渉の影響で、集会及正社法違反として取調を受けたが、証拠不十分で免訴となった[7]。
明治25年(1892年)広島県第二区選出の衆議院議員八田謹二郎辞職に伴い、補欠選挙に出馬するも12月13日落選、明治27年(1894年)3月3日第3回衆議院議員総選挙にも落選したが、9月1日第4回衆議院議員総選挙臨時総選挙に当選した[3]。なお、続いて開かれた第7回帝国議会は日清戦争のため広島臨時仮議事堂で行われた。明治30年(1897年)11月8日水産調査会臨時委員[3]。明治30年(1897年)12月25日の衆議院解散後、第5回衆議院議員総選挙に落選し、政界引退を決意した[2]。
政界引退後
編集明治31年(1898年)10月22日から明治32年(1899年)10月まで日本赤十字社東京支部主事を務めた[3]。明治33年(1900年)3月28日から5月1日まで潤筆料を求めて長野県南佐久郡を旅したが[3]、出費が嵩み赤字となった[2]。明治34年(1901年)2月から明治41年(1908年)7月まで東京専門学校の大学認定のための基金募集委員を務めた[3]。
明治36年(1903年)4月、興芸社の後身芸備協会において専務理事、大正9年(1920年)6月20日理事長となり[3]、大正10年(1921年)4月辞職し、名誉理事に就任した[2]。大正11年(1922年)3月9日柏会理事[3]。大正11年(1922年)6月30日浅野長勲に事跡編纂を嘱託され、昭和6年(1931年)『坤山公八十八年事蹟』を刊行した[3]。
昭和7年(1932年)5月[1]、借家生活を終えて上北沢に新居を構えたが[8]、昭和8年(1933年)8月上旬病気に罹り、昭和9年(1934年)1月18日死去した[2]。
改名
編集著書
編集人物
編集幼少時、体格が劣っていたために、戦争ごっこでは常に泣かされる立場だったが[10]、記憶力に優れていたため、藩政を真似る御用事という遊びでは、藩の官職の知識を活かして活躍した[9]。陸軍時代、「日備提要」を丸暗記して徴兵事務に臨んだため、「日備提要」と渾名された[9]。
軍人時代に正七位に叙されたが、その後官では不遇の道を辿ったため、無位無官にこだわるようになり、親友佐藤正が元凱の藍綬褒章受章を政府に働きかけようとし、これを断ったところ大喧嘩となった[11]。
将棋、囲碁を嗜み、小野五平名人より二段の口約を得るも、免状を受け取ることはなかった[12]。昭和7年(1932年)晩春、上野韻松亭で手島益雄に宮松関三郎七段との対局を促され、一枚半落ちで勝利し、関根金次郎名人より初段の免状を送られたが、これを返上した[11]。
親族
編集元凱は広島藩士山下平八郎弘毅(後山下梅鶴)と、同藩士平田千太郎氏之女勇子との間に、五男三女の五男として生まれたが、長兄亀太郎、 四男兵之助は夭折し[13]、藩には三男として届け出た[7]。次兄豊穂が山下家を継ぎ、三男猪三郎は20歳で死去した[13]。
文久2年(1862年)7月6日高間権兵衛の婿養子となったが[3]、庭の手入れ等を強制される等のことで度々衝突し、養母に仲裁されていたところ、その養母が急死したため[14]、慶応元年(1865年)8月17日離縁した[3]。
次いで、明治2年(1869年)5月24日小鷹狩介之丞正作の養子となり、10月2日一人娘喜代と結婚した[7]。喜代は嘉永7年(1854年)3月2日広島松原に正作の次女として生まれ、幼名李花、東京移住後に清の字を当て、清子と称した[7]。明治6年(1873年)3月20日正作より家督を譲られた[3]。妻清子は子宮筋腫や座骨神経痛に悩まされながら[7]、外国人に毛糸を学び、家の困窮時には内職をして家計を支えた[14]。晩年動脈硬化症、萎縮腎を患い、昭和2年(1927年)3月10日死去した[7]。
明治3年(1870年)12月4日長女通(みち)が生まれるも、明治5年(1872年)6月10日病没したため、実兄山下豊穂の男女二子を養子に迎えた[7]。
脚注
編集- ^ a b c d 原発太郎「小鷹狩先生を憶ふ」
- ^ a b c d e f g h i j k l m 「小鷹狩元凱翁略伝」『小鷹狩元凱翁』
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 「小鷹狩元凱翁年譜」『小鷹狩元凱翁』
- ^ 真田鶴松「小鷹狩元凱翁の事」『小鷹狩元凱翁』
- ^ a b c d e f 村井二郎吉「開会の辞」『小鷹狩元凱翁』附録
- ^ a b 『芸備協会略志』
- ^ a b c d e f g 『梅月遺影』
- ^ 市川義雄「正直なる小鷹狩先生」『小鷹狩元凱翁』
- ^ a b c 小鷹狩元凱「小鷹狩翁米寿祝賀会演説」『小鷹狩元凱翁』附録
- ^ 村井二郎吉「小鷹狩先生を偲びて」『小鷹狩元凱翁』
- ^ a b 玉国光太郎「小鷹狩先生の事ども」『小鷹狩元凱翁』
- ^ 小鷹狩丙吉「父を語る(其の一)」『小鷹狩元凱翁』
- ^ a b 山下豊穂「山下梅鶴先生略伝」『弘洲雨屋虫干集』
- ^ a b 山下恒雄「小鷹狩家を語る(其の一)」『小鷹狩元凱翁』