太秦家
太秦家(うずまさけ)は、藤原北家水無瀬一門桜井支流の華族(奈良華族)である。石高は50石。左近衛権中将桜井供秀の次男(実は権中納言堀河康親の男)・供親を祖とする。
太秦家 | |
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五七の桐 | |
本姓 | 藤原北家水無瀬一門桜井支流 |
家祖 | 太秦供親 |
種別 | 華族(奈良華族、男爵) |
出身地 | 大和国 |
主な根拠地 |
大和国 東京府 北海道 |
著名な人物 | 太秦康光 |
凡例 / Category:日本の氏族 |
家の歴史
編集供親は興福寺慈尊院住職で堯雅を名乗っていたが、明治2年(1869年)の勅令により還俗し、華族令によって男爵を授けられた[1]。供康は、陸軍歩兵少佐まで進み、貴族院議員を務めた。康光は、理学博士、北海道大学教授、名誉教授[2][3]。北大理学部長、函館工業高等専門学校初代校長などを歴任し[3]、登別温泉を対象に、温泉の化学的研究を確立した[3]ほか、小さな親切運動札幌支部長も務め、札幌市民に親しまれた[4]。
系譜
編集- 実線は実子、点線(縦)は養子。
桜井供秀 | |||||||||||||
太秦供親 | |||||||||||||
供康[5] | |||||||||||||
康光 | |||||||||||||
脚注
編集外部リンク
編集- 公卿類別譜(公家の歴史)太秦 - ウェイバックマシン(2005年12月23日アーカイブ分)
- 太秦家 - (世界帝王辞典)