土井利則
土井 利則(どい としのり)は、下総国古河藩主。土井家宗家13代。
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
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生誕 | 天保2年9月17日(1831年10月22日)[1] |
死没 | 明治24年(1891年)8月27日[1] |
改名 | 鋤抵若(幼名)、利則 |
別名 | 内膳(通称) |
戒名 | 覚誉利則義道天誠院 |
墓所 |
東京都府中市紅葉丘の誓願寺の誓願寺 茨城県古河市大手町の正定寺 |
官位 | 従五位下、大炊頭、織部正 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家慶、家定、家茂、慶喜 |
藩 | 下総古河藩主 |
氏族 | 藤堂氏、土井氏 |
父母 | 藤堂高秭、土井利亨 |
兄弟 |
整子、細子、石田鉄雄、鈴子、重卯子、 錫子、寅久子、鋤抵若、利則 |
妻 | 土井利亨養女心誠院 |
子 | 利与[1]、福子、大岡忠貫正室、守巣 |
生涯
編集天保2年(1831年)9月17日、伊勢久居藩主・藤堂高秭の四男として生まれる。弘化4年(1847年)3月7日に先代の古河藩主・土井利亨の養子となる。嘉永元年(1848年)11月8日、養父の死去により家督を継ぐ。同年11月15日、将軍徳川家慶に拝謁する。同年12月16日に従五位下・大炊頭に叙任する。隠居後は織部正に改めた。
藩政では西洋砲術の演習、武芸の奨励、片町教武所の創設などに尽力しているが、病弱だったために藩政を執ることが次第に困難となり、慶応3年(1867年)4月5日に家督を長男の利与に譲って隠居した。
明治24年(1891年)8月27日に死去[1]。享年61。
系譜
編集父母
正室
- 心誠院 - 土井利亨の養女、土井利位の娘
子女
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b c d 『国民過去帳 明治之巻』335頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2022年2月3日閲覧。
- ^ 土井利與『人事興信録』初版 [明治36(1903)年4月]
- ^ 『日本現代富豪名門の家憲』岩崎徂堂 編 (博学館編輯局, 1908)
参考文献
編集- 大植四郎編『国民過去帳 明治之巻』尚古房、1935年。