園基藤
鎌倉時代後期の公卿。従二位・権中納言、右衛門督、検非違使別当。園家3代。母は明清(八幡、法印)の娘。子に覚誉(延暦寺、僧都)
園 基藤(その もとふじ)は、鎌倉時代後期の公卿。参議・園基顕の子。母は明清法印の娘。初名は基定。官位は従二位・権中納言、右衛門督、検非違使別当。園家3代当主。
時代 | 鎌倉時代後期 |
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生誕 | 建治2年(1276年) |
死没 | 正和5年7月4日(1316年7月23日) |
改名 | 基定(初名)→基藤→寂玄(法名) |
官位 | 従二位、権中納言、右衛門督、検非違使別当 |
主君 | 後宇多天皇→伏見天皇→後伏見天皇→後二条天皇→花園天皇 |
氏族 | 藤原北家中御門流園家 |
父母 | 父:園基顕、母:明清法印の娘 |
兄弟 | 基兼、基藤、為中光仲、久我長通室 |
妻 | 昭訓門院大夫局、橋本実俊の娘 |
子 | 基成、基春、基有、覚静、覚誉、六条有忠正室 |
園家の出身では初めて権中納言に任ぜられた。
経歴
編集以下、『公卿補任』と『尊卑分脈』の内容に従って記述する。
- 弘安4年(1281年)1月5日、叙爵[1]。
- 正応3年(1290年)4月17日、従五位上に昇叙[2]。同年6月8日、左衛門佐に任ぜられる。
- 正応4年(1291年)3月11日、左少将に任ぜられる。
- 正応5年(1292年)2月27日、正五位下に昇叙。
- 正応6年(1293年)3月14日、従四位下に昇叙。同年6月19日、左少将に還任。
- 永仁2年(1294年)3月27日、近江介を兼ねる。同年7月2日、左中将に転任。
- 永仁3年(1295年)8月5日、従四位上に昇叙。
- 永仁5年(1297年)閏10月23日、正四位下に昇叙。
- 嘉元2年(1303年)11月2日、蔵人頭に補される。
- 嘉元3年(1305年)3月8日、従三位に叙される。同日、右兵衛督に任ぜられる。
- 徳治元年(1306年)2月5日、右兵衛督を止められる。[3]。
- 徳治2年(1307年)12月12日、右衛門督に任ぜられる。
- 延慶元年(1308年)9月17日、参議に任ぜられる。右衛門督は元の如し。
- 延慶2年(1309年)2月28日、検非違使別当に補される。3月23日、但馬権守を兼ねる。8月10日、権中納言に任ぜられる。同月28日、検非違使別当を辞す。9月1日、右衛門督を辞す。10月13日、正三位に昇叙。
- 延慶3年(1310年)2月8日、権中納言を辞した。
- 応長元年(1311年)1月5日、従二位に昇叙。
- 正和元年(1312年)5月、出家。法名寂玄。
- 正和5年(1316年)7月4日、薨去。
系譜
編集脚注
編集出典
編集- 『公卿補任』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編) ※ 嘉元3年(1305年)に基藤が非参議従三位となった時以降の記事。
- 『尊卑分脈』(新訂増補国史大系)吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編集会(編) ※「園基藤」及び「園基顕」の項。
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