古グリュックスブルク家
シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク家(Das herzogliche Haus Schleswig-Holstein-Sonderburg-Glücksburg)は、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク公爵家諸家の分流の一つ。男系血統は1622年から1779年まで続いた。1825年に成立して現在も男系血統が続いている、同族別系統の新グリュックスブルク家との弁別のため、古グリュックスブルク家(Haus Glücksburg ältere Linie)と通称される。
歴史
編集家門の興りは1622年、ゾンダーブルク家の始祖ハンス若公が亡くなり、彼が領邦高権のない分有領主として所有していたゾンダーブルク公爵領を、遺言で存命中の6人の息子に分割相続させたことに始まる。ゾンダーブルク一門の公爵たちは、シュレースヴィヒ公国がデンマーク王冠領に属することから、デンマーク王を封主と仰ぎ、その封臣として封土授与を受ける必要があった。一門の男子は、オルデンブルク家の正嫡の男子の権利として、シュレースヴィヒ公爵及びホルシュタイン公爵の称号を名乗ることができたが、同族別系統のゴットルプ一門とは違い、シュレースヴィヒとホルシュタインの両公爵領をデンマーク王と共同で統治する権限は認められていなかった。
ハンス若公の6人中5番目の子息フィリップが古グリュックスブルク家の始祖となった。彼は父親の建てたグリュックスブルク城と付属荘園を中心とする所領を分与され、家名に定めた。フィリップの所領は6人兄弟が相続した中で最も狭小で、面積はおよそ210プフルーク(≒3717ha)程度、これは同地域の富裕貴族の所領とそう変わらない規模であった。
所領の大部分はフレンスブルク・フィヨルド北部ソネヴィズ地方の大部分を成すブロエーヤ、ニュブル、デュブル、ウレロプの各教区共同体、グリュックスブルクの御料地及びムンクブラールプ教区共同体、ハンス若公の創設した小規模なノイキルヒェン教区共同体で構成されていた。
グリュックスブルク公家はその領地の狭小さと封主デンマーク王に対する従属的な地位のために、ついぞ政治的な重要性を得ることができなかった。それだけに領邦君主のように振る舞うことのできる権限、例えば領民に貴族の身分を与えることのできる権限などには、非常に固執した。領内には6つの教会堂とグリュックスブルク城内礼拝堂しか宗教施設がなかったにもかかわらず、公爵は公爵領における教会首長(Kirchenhoheit)として、教会長老会議を主宰し、礼拝規則や学校規則を発布した。
最初の3人の公爵は堅実な領国経営によって所領を倍加させることに成功した。ところが1749年から1756年にかけ、4代目のフリードリヒが領地を次々に売り払ってしまったため、所領の規模は公爵家の設立当初と同程度に戻ってしまった。1779年、5代目のフリードリヒ・ハインリヒ・ヴィルヘルムが嫡出男子を残せずに死ぬと、古グリュックスブルク家は断絶した。同家の所領は、デンマーク王室が回収することのできた、最後の分有領主の公爵領(abgeteilten Herzogtum)であった。
家名の存続
編集ナッサウ=ザールブリュッケン侯ヴィルヘルム・ハインリヒの娘アンナ・カロリーネ(1751年 - 1824年)は、古グリュックスブルク家最後の当主の未亡人で、夫の死後もグリュックスブルク城の用益権を認められ、1824年に死去するまで同城に居住した。
アンナ・カロリーネの死の翌年の1825年、デンマーク王フレゼリク6世は、手許に戻ってきたグリュックスブルク城と同公爵の称号を、その領主権は認めないまま、義弟のシュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=ベック公フリードリヒ・ヴィルヘルムに譲った。彼とその妻子はシュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=ベック家の家名を廃し、新たにシュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゾンダーブルク=グリュックスブルク家と改名した。この家門は系譜上新グリュックスブルク家(Haus Glücksburg jüngere Linie)と呼ばれ、古グリュックスブルク家とは同族別系統で直系男系子孫ではないものの、家名を引き継ぐ形となった。
また、アンナ・カロリーネは1818年、妹の孫娘でフランス人のヴィレルミーヌ=エジディ・ド・ボーポワユ・ド・サントーレール(1802年 - 1873年)を、フランス王ルイ18世の寵臣エリー・ドゥカズに嫁がせることに成功した。この結婚(同年8月11日)に先立ち、同年6月14日、ドゥカズに妻方と同格の爵位を与えるため、デンマーク王フレゼリク6世は彼を義理の大伯母アンナ・カロリーネの称号・居城に因むグリュックスベア公爵(Hertug af Glücksbierg)に叙爵した。
歴代公爵
編集在位 | 名前 | 備考 |
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1622年 - 1663年 | フィリップ | 始祖 |
1663年 - 1698年 | クリスティアン | 息子 |
1698年 - 1729年 | フィリップ・エルンスト | 息子 |
1729年 - 1766年 | フリードリヒ | 息子 |
1766年 - 1779年 | フリードリヒ・ハインリヒ・ヴィルヘルム | 息子 |
系図
編集オルデンブルク家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
クリスチャン3世 デンマーク王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フレゼリク2世 デンマーク王 | ヨハン ゾンダーブルク公 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
デンマーク王家 | アレクサンダー ゾンダーブルク公 | フィリップ グリュックスブルク公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ヨハン・クリスティアン ゾンダーブルク公 | エルンスト・ギュンター アウグステンブルク公 | アウグスト・フィリップ ベック公 | クリスティアン グリュックスブルク公 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ゾンダーブルク家 | アウグステンブルク家 | ベック家 | フィリップ・エルンスト グリュックスブルク公 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フリードリヒ グリュックスブルク公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フリードリヒ・ハインリヒ・ヴィルヘルム グリュックスブルク公 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
フレゼリク6世 デンマーク王 | マリー・フォン・ヘッセン=カッセル | ルイーゼ・カロリーネ | フリードリヒ・ヴィルヘルム グリュックスブルク公 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
新グリュックスブルク家 リュクスボー家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
参考文献
編集- Carsten Porskrog Rasmussen: Die älteren Glückburger Herzöge. In: Ders. u. a.(Hg.) im Auftrag der Gesellschaft für Schleswig-Holsteinische Geschichte: Die Fürsten des Landes. Herzöge und Grafen von Schleswig, Holstein und Lauenburg. Neumünster: Wachholtz, 2008, ISBN 978-3-529-02606-5, pp. 271–290