南満洲鉄道パシナ型蒸気機関車
南満洲鉄道パシナ型蒸気機関車は、南満洲鉄道(満鉄)が設計・製造・運用した蒸気機関車。満鉄の看板列車「あじあ」の牽引機として設計・製造された。
南満洲鉄道パシナ型蒸気機関車 | |
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勝利7型(パシナ形751号機)、1984年 | |
基本情報 | |
運用者 | 南満洲鉄道(満鉄) |
製造所 |
満鉄沙河口工場(970~972) 川崎車輛(973~981) |
製造数 | 12両 |
運用開始 | 1934年(昭和9年) |
投入先 | 満鉄連京線 |
主要諸元 | |
軸配置 | 2C1(4-6-2) |
軌間 | 1,435 mm |
全長 | 25,675 mm |
全幅 | 3,310 mm |
全高 | 4,800 mm |
空車重量 |
105.40 t(機関車) 35.11 t(炭水車) |
運転整備重量 |
119.20 t(機関車) 84.11 t(炭水車) 203.33 t(機関車・炭水車合計) |
先輪径 | 920 mm |
動輪径 | 2,000 mm |
従輪径 | 1,270 mm |
軸重 | 約23 t |
シリンダ (直径×行程) | 610 mm×710 mm |
弁装置 | ワルシャート式 |
ボイラー圧力 | 15.5 kg/cm2 |
大煙管 (直径×長さ×数) | 90 mm×5,150 mm×132本 |
小煙管 (直径×長さ×数) | 51 mm×5,150 mm×70本 |
全伝熱面積 | 379.64 ㎡ |
過熱伝熱面積 | 102.20 ㎡ |
全蒸発伝熱面積 | 277.44 ㎡ |
煙管蒸発伝熱面積 | 248.15 ㎡ |
火室蒸発伝熱面積 | 29.29 ㎡ |
燃料 | 石炭 |
燃料搭載量 | 12 t |
水タンク容量 | 37 t |
最大出力 | 2,400馬力 |
開発の背景
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1933年(昭和8年)8月、満鉄では大連 - 新京間を結ぶ新たな特急列車(「あじあ」)の開発が決定された。この特急列車は当時の満鉄の最優等列車「はと」を上回る高速運転を行うこととされ、その牽引を行う大出力・高速の機関車として開発されたのがパシナ型蒸気機関車である。
構造
編集パシナの設計は、それまで急行列車の牽引機として運用されていたパシコをベースとした。パシコを超える高速性能を得るため、動輪の直径はパシコの1,850 mmから2,000 mmに拡大されたほか、ボイラー圧力は14.1 kg/cm2から15.5 kg/cm2に引き上げられた。燃焼室とアメリカで広く使用されたシュミットE式過熱管を使用。ブラストノズルは通常の円筒型ではなく、菊花型を使用。
大型のボイラーを搭載し、軸重は約23 tとなった。一方で軽量化のためにボイラーの素材にはアメリカから輸入された2.25パーセントのニッケルクロム鋼を使用した。
デュポン式BKM型自動給炭機と多弁式加減弁装置、主連棒などの軸受にフローティングブッシュ、自動動輪軸軸箱楔アリゲーター式クロスヘッド。炭水車の台車にはスウェーデンSKF社製コロ軸受を採用した。主台枠は棒台枠、後台枠は一体鋳鋼製クレードル式、従台車にはデルタ式を使用している。
設計に当たって、軸重が23 tを超えないよう、従台車を2軸とした軸配置2C2(4-6-4)のハドソン型(形式観点からハドイ)とする案もあったが、与えられた開発期間が短く失敗が許されないため、最終的に満鉄での実績が豊富なパシフィック型が採用された[1]。設計陣は軽量化や軸重の配分に苦心し、機器類をできるだけ機関車前方に搭載し、自動給炭機の動力装置を炭水車に設置するといった工夫によって軸重を制限内に収めている。
パシナを大きく特徴づける流線形カバー(重量は2.5 t)は、初期生産型の11両(970~980)から装着された。その後も川西航空機の風洞を用いて形状が検討され、1936年(昭和11年)に製造された最終生産型の1両(981)に反映された。981は流線型の傾斜を増してカバーが下部まで延長され、初期生産型では露出していた前部連結器をカバー内に収めた洗練された形状となり、「ヘルメット型」と呼ばれて人気を博した[1]。
製造
編集パシナは1934年(昭和9年)に11両が製造された。970~972までの3両が満鉄沙河口工場で、973~980までの8両が川崎車輌での製造である。全てのパシナを自社で製造しなかったのは、運行開始までの期間が短く自社工場だけでは必要な数のパシナを調達できなかったためである。なお、979は川崎車輌で製造された1,500両目の機関車となった。
1936年(昭和11年)には12両目のパシナとなる981が川崎車輌で製造された。
運用
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「あじあ」の運転開始当初は11両のパシナのうち7両が大連機関区、4両が新京機関区に配置され、奉天駅で機関車と乗務員の交代を行った。後に、パシナの運用成績が安定すると奉天駅での機関車交代は行われなくなり、大連 - 新京間を同一のパシナが牽引し乗務員のみが奉天駅で交代する方式に改められた。また、「あじあ」だけでなく急行「はと」の牽引もパシナが担当している。
パシナは軸重が約23 tと重く、軌道の規格が高い連京線(大連 - 新京間)でのみ走行可能だった。そのため京浜線(新京 - ハルビン間)には乗り入れることができず、新京 - ハルビン間の「あじあ」はパシシ(後にパシロに変更)が牽引した。
「あじあ」運休後もパシナは「はと」の牽引を続け、時には普通列車を牽引することもあった[1]。
戦後
編集戦後はソ連などに接収されて、中華人民共和国で呼称を「勝利(SL)7型」に変えられた。その中でSL753(972)は特徴的な流線型のカバーを取り払われ、通常の外見になった。
戦後、パシナの消息は長らく不明であったが、1980年頃に中国で存在が確認されるようになり、1984年(昭和59年)には日中の鉄道技術者の協力のもと751号機が走行可能な状態まで復元された[2]。
満鉄会などが中心になって返還運動を進めたが実現することはなく会は解散している。
戦後に見つかったパシナは751(970)、753(972)、754(973)、755(974)、757(976)の5両あり、その中で753、754と755の3両は解体されてしまった。757に関しては、見つかったのが2000年代以降とつい最近であった。
保存
編集12両製造されたパシナのうち現存が確認されているのは751号機と757号機の2両で、どちらも瀋陽鉄道陳列館に保存されている。2019年(令和元年)まで一般公開はされず、研究者や鉄道関係者のみ見学することができたが、2019年以降は一般公開が行われている[3]。
鉄道模型
編集Nゲージでは、マイクロエースによって「あじあ号セット」などで模型化されている。
またHOモデルではカツミやEisenbahn Canadaが製品化している。
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b c 天野博之『満鉄特急「あじあ」の誕生』原書房、2012年。
- ^ “貴重映像!満鉄「あじあ号」の機関車が動いた”. 東洋経済ONLINE. 2021年3月17日閲覧。
- ^ “【動画】幻の超特急「あじあ号」今はどこに? 旧満州走った流線形SL”. 西日本新聞. 2021年7月13日閲覧。
参考文献
編集- 高木宏之 『満洲鉄道発達史』 株式会社潮書房光人社、2012年、ISBN 978-4-7698-1524-2
- 高木宏之 『満洲鉄道写真集』 株式会社潮書房光人社、2013年、ISBN 978-4-7698-1535-8
- 『南満洲鉄道の車両:形式図集』 市原善積等編著、誠文堂新光社、1970年、全国書誌番号:69000946。
- 市原善積 『満鉄 特急あじあ号』
- 『中国蒸汽机車世紀集影 (1876-2001) 』 中国鉄道出版社、2001年7月、ISBN 7-113-04148-5。
- デイビット・ロス 著、小池滋・和久田康雄 訳『世界鉄道百科事典』悠書館。ISBN 978-4-903487-03-8。
- 齋藤晃『蒸気機関車の技術史』(改訂増補版)成山堂書店〈交通ブックス117〉、2018年。ISBN 978-4425761623。