内藤武敏

日本の俳優、ナレーター (1926-2012)

内藤 武敏(ないとう たけとし、1926年大正15年〉6月16日[2][3] - 2012年平成24年〉8月21日[3])は、日本俳優ナレーター。本名は同じ[2]

ないとう たけとし
内藤 武敏
本名 内藤 武敏
生年月日 (1926-06-16) 1926年6月16日
没年月日 (2012-08-21) 2012年8月21日(86歳没)
出生地 日本の旗 日本福岡県小倉市
死没地 日本の旗 日本神奈川県横浜市
身長 165 cm
血液型 AB型
ジャンル 俳優ナレーター
活動期間 1950年 - 2008年?
活動内容 舞台、映画、テレビドラマ
配偶者 桜井良子[1]
事務所 さいど事務所
主な作品
映画
ビルマの竪琴
人間の條件
獄門島 (1977年の映画)
ゴジラ (1984年の映画)
ひかりごけ
テレビ作品
おらんだ左近事件帖
赤い疑惑
赤い激流
赤い激突
山河燃ゆ
葵 徳川三代
受賞
第12回芸術祭賞奨励賞(1957年)
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福岡県小倉市出身[2]旧制常磐中学校日本大学[2]予科卒業。劇団民藝[2]其田事務所[2]を経て、さいど事務所に所属していた。

血液型はAB型。身長165cm、体重60kg。

来歴・人物

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映画制作を志し、俳優養成所へ入所。当初は演出家希望だったが、指導者の勧めで演劇コースへ進む。

1950年宇野重吉加藤嘉北林谷栄鈴木瑞穂らと共に劇団民藝の創立に参画するも、1970年に退団。

1952年に公開された吉村公三郎監督の『暴力』でスクリーンデビュー。

大河ドラマへ多数出演したほか、山口百恵主演の赤いシリーズでは3作品でナレーションを担当していた。

武田泰淳ひかりごけ』(1954年刊)を、壮年期に読み映画化を長年切望し、友人である三國連太郎が主演を快諾し、親交の深い熊井啓を監督に、1992年に公開を実現させた[注釈 1]。同作品はベルリン国際映画祭に正式出品されるなど、高い評価を受けた。

ロバート馬場裕之は縁戚にあたる。

2012年8月21日午前10時10分、悪性リンパ腫により神奈川県横浜市の病院で死去[4]。86歳没。

出演

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映画

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テレビ作品

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ナレーション

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吹き替え

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歴史番組

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脚注

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注釈

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  1. ^ 内藤自身も出演、製作でもクレジットされている。
  2. ^ 第1シリーズ前期を担当(後期から黒沢良)。

出典

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  1. ^ 山下勝利来宮良子「性に合っている「一度きりの電波」」『芸バカ列伝』朝日ソノラマ、1981年、94頁。ISBN 978-4257031413 
  2. ^ a b c d e f 日本タレント名鑑'82』VIPタイムズ社、1981年、141頁。 
  3. ^ a b c d 野村宏平、冬門稔弐「6月16日」『ゴジラ365日』洋泉社映画秘宝COLLECTION〉、2016年11月23日、160頁。ISBN 978-4-8003-1074-3 
  4. ^ “映画、ドラマで名脇役…内藤武敏さん 86歳で死去”. スポニチ Sponichi Annex. (2012年8月30日). https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2012/08/30/kiji/K20120830004004250.html 2017年1月14日閲覧。 
  5. ^ 東宝特撮映画全史 1983, p. 538, 「主要特撮作品配役リスト」
  6. ^ 東宝特撮映画大全集 2012, p. 209, 「『ゴジラ』作品解説/俳優名鑑」
  7. ^ 岡田晋吉『青春ドラマ夢伝説 あるプロデューサーのテレビ青春日誌』日本テレビ放送網、2003年、141頁。ISBN 4-8203-9863-6 

参考文献

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外部リンク

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