佐藤庄助
佐藤 庄助(さとう しょうすけ、1876年(明治9年)10月4日[1] - 1944年(昭和19年)10月25日[1][2])は、明治から昭和前期の農業経営者、実業家、政治家。衆議院議員。
佐藤庄助 さとう しょうすけ | |
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生年月日 | 1876年10月4日 |
出生地 |
日本 水沢県栗原郡有馬村有壁 (現宮城県栗原市金成有壁) |
没年月日 | 1944年10月25日(68歳没) |
出身校 |
札幌農学校卒業 (現北海道大学) |
前職 | 農業 |
所属政党 | 立憲政友会 |
選挙区 | 宮城県第5選挙区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1922年4月 - 1924年1月31日 |
在任期間 | 1903年9月 - 1904年6月 |
経歴
編集水沢県栗原郡有馬村有壁(宮城県[2]栗原郡萩野村[1][3][4]、金成町を経て現栗原市金成有壁)で、旧有壁宿本陣の佐藤家に生まれた[5]。札幌農学校を卒業し[1][2][3][4][5]、さらに慶應義塾[1][2][3][4][5]、養正塾、セントアンドリーチャーチ英語学校で学んだ[1][2]。農業を営む[1]。
1896年(明治29年)徴兵され陸軍騎兵少尉となり除隊[1][3]。1903年(明治36年)9月、宮城県会議員に選出された[1]。1904年(明治37年)6月に応召して県議を辞職し、満州軍に属して日露戦争に出征した[1][2][3][4]。陸軍騎兵中尉に昇進して除隊[1][2][4]。
1922年(大正11年)4月29日、沢来太郎の死去に伴い実施された第14回衆議院議員総選挙補欠選挙(宮城県第5区、立憲政友会公認)で当選し[1][3][5][6][7][8]、衆議院議員に1期在任した[2][4]。
実業界では花泉蒸気取締役に在任し、その他、数社の重役を務めた[1][2][3][4][5]。有壁駅の開設に私財を投じ、県道の開設、病院の新設などにも尽力した[1][2][3][4][5]。有壁駅振興会長も務めた[2][4]。
脚注
編集参考文献
編集- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第14回』衆議院事務局、1924年。
- 衆議院事務局編『総選挙衆議院議員当選回数調 - 第1回乃至第19回』衆議院事務局、1936年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 宮城県議会史編さん委員会編『宮城県議会史 第2巻』宮城県議会、1974年。
- 『宮城県百科事典』河北新報社、1982年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 竹内理三ほか編『宮城県姓氏家系大辞典』角川日本姓氏歴史人物大辞典4、角川書店、1994年。