伏見格之助
日本の政治家。東大阪市長
伏見 格之助(ふしみ かくのすけ、1919年〈大正8年〉3月12日[1] - 2007年〈平成19年〉7月2日[2])は、日本の政治家、元東大阪市長[3]。日本社会党と日本共産党の推薦で革新市政を12年間担った。
伏見 格之助 ふしみ かくのすけ | |
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生年月日 | 1919年3月12日 |
出生地 | 岡山県岡山市 |
没年月日 | 2007年7月2日(88歳没) |
出身校 | 大阪府天王寺師範学校 |
所属政党 | 日本社会党 |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1970年(昭和45年)6月14日 - 1982年(昭和57年)6月13日 |
略歴・人物
編集岡山県岡山市出身。旧制大阪府立八尾中学校(現・府立八尾高等学校)を経て[4]、大阪府天王寺師範学校(現・大阪教育大学)卒[5]。大阪教職員組合委員長、日本社会党大阪府本部書記長となる[5]。
1967年(昭和42年)4月の大阪府議会議員選挙に日本社会党から立候補(布施市選挙区)も次点[6]。
1970年6月の東大阪市長選挙に日本社会党と日本共産党の推薦で立候補[7]。現職の初代市長で自由民主党の辰巳佐太郎を破り初当選した[8]。
1967年4月の東京都知事選挙で社会党・共産党推薦の美濃部亮吉が初当選するなど革新自治体ブームの最中であり、同2月に誕生[9] したばかりの人口50万人を抱える全国15番目の大都市[10] に革新市政が生まれた衝撃は大きく、翌1971年の大阪府知事選挙で黒田了一革新府政が誕生するきっかけとなった。
伏見は以後3期12年間、第2代の東大阪市長を務めたが、4期目を目指して出馬した1982年の市長選挙で北川謙次に敗れた[11]。
人物
編集伏見の市長当選の翌1971年、伏見と同じく日本社会党と日本共産党の推薦を得て京都市長に初当選した舩橋求己は、伏見の従兄弟である。
脚注
編集- ^ 『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 1 (政治・経済・社会篇)』日外アソシエーツ株式会社、2012年、1080頁。
- ^ 伏見格之助氏死去/元東大阪市長 - 四国新聞2007年(平成19年)7月3日
- ^ 笑 顔 あ ふ れ る 輝 く 未 来 へ - 東大阪市 - 東大阪市政だより2007年2月1日号
- ^ エコノミスト2017年12月5日 名門高校の校風と人脈(267)八尾高校(大阪府立・八尾市)
- ^ a b 『現代物故者事典 2006~2008』556頁。
- ^ 昭和42年4月15日執行大阪府議会議員選挙 | 東大阪
- ^ 革新市政の政治的発展 - 福島大学
- ^ 昭和45年6月14日執行市長選挙 | 東大阪
- ^ 布施市、河内市、枚岡市の3市が1967年(昭和42年)2月に合併し「東大阪市」となった
- ^ 東大阪市の歩み | 東大阪市
- ^ 昭和57年5月16日執行市長選挙 | 東大阪市
参考文献
編集- 『現代物故者事典 2006~2008』日外アソシエーツ、2009年。
関連項目
編集- 長尾淳三 - 伏見と同じ大阪府立八尾高等学校の後輩で、同じく日本共産党推薦・新社会党支持で東大阪市長を務めた
公職 | ||
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先代 辰巳佐太郎 |
大阪府東大阪市長 1970年 - 1982年 |
次代 北川謙次 |