今井藤七
今井 藤七(いまい とうしち、嘉永2年12月24日(1850年2月5日) - 大正14年(1925年)10月24日)は、日本の実業家。北海道の老舗百貨店丸井今井(現・三越伊勢丹ホールディングス傘下)の創業者。
来歴・人物
編集- 1849年(嘉永2年) - 越後国蒲原郡三条町上町(現三条市)に今井七平の6男2女の三男として生まれる
- 1861年(文久元年) - 上町塗師屋大火で罹災、長岡の竹屋吉兵衛店に奉公に出る
- 1864年(元治元年) - 今町の河内屋要吉の婿養子に迎えられる
- 1865年(慶応元年) - 父七平が投獄されたことから藤七は河内屋から離縁されて実家に戻り今井家の生計を担う
- 1871年(明治4年) - 兄が函館の廻船問屋で働いていたこともあり[1]、新潟港から船で函館へ出発、函館で陶器商武富平作の店に奉公
- 1872年(明治5年) - 札幌入りを果たし、5月1日(新暦6月18日)に創成川畔に小間物商「今井商店」を開業(丸井今井の前身)
- 1874年(明治7年) - 現在の札幌市中央区南1条西1丁目に新店舗を構えて「丸井今井呉服店」とし、末弟の良七も三条から札幌に入る
- 1875年(明治8年) - 三条に一時帰郷、父七平死去
- 1876年(明治9年) - 次弟の武七も札幌入り
- 1878年(明治11年) - 鈴木半左衛門の三女・すて子と結婚、武七の長男・雄七を養子に迎える
- 1891年(明治24年) - 創業20周年を迎え、武七に小樽色内町に丸井今井商店を独立させる
- 1892年(明治25年) - 良七に函館丸井今井商店を開業独立させる
- 1919年(大正8年) - 株式会社に改組し、社長に就任
- 1925年(大正14年)10月24日 - 東京目白の自邸で死去、75歳。11月3日に三条の菩提寺・定明寺で本葬を営み累代の墓に眠る
二代目・雄七
編集1878年に今井藤七の次弟・武七の長男として新潟県南蒲原郡三条町に生まれ、子がいなかった藤七の養子となる。1898年に慶應義塾を卒業し、藤七の許しを得て渡米。帰国後は丸井今井に入り、1925年藤七の死去を受け後継。1935年に武徳殿(現・三条市歴史民俗産業資料館)の建設基金として3万円を三条市に寄付、1940年の三条商工会議所の設立には初代会頭に推薦され就任。1944年死去、66歳。定明寺に眠る。
今井家
編集- 牧田利平編 『名家系譜 越佐人物誌』 野島出版、1986年、45-46頁 に基づき作成した。
- 頭のカッコ数字は丸井今井の社長就任順を示す。
(長男) | (2) 雄七[2] | (3) 道雄 | たみ子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(次男) | そな[3] | 義雄 | (4) 春雄[4] | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
(1) 藤七 | 清七 | 和七 | 信雄 | 國雄 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
武七 | タイ | きん | 秀雄 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
今井七平[5] | 多七 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
弘七 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
多満 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
音七 | 良雄 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
良七 | キミ | 勝七 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
小林良平 | 久平[6] | 八重 | 喜枝子 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
羽賀誠作 | 行蔵 | 重明 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
編集関連項目
編集外部リンク
編集- 丸井今井邸
- 『北海道立志編. 第1巻』今井藤七(北海道図書出版, 1904)
- 『修養世渡り警句』今井藤七 (岡村書店, 1915)