二条持基
室町時代中期の公卿、歌人。二条師嗣の次男。従一位、摂政、関白、太政大臣。藤氏長者、二条家9代。勅撰集『新続古今和歌集』に3首入集。子に尊応(1432-1514.2.2、天台座主、天王寺別当、
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二条 持基(にじょう もちもと)は、室町時代中期の公卿・歌人。
「摂家二條家墓基礎調査報告書」同志社大学歴史資料館 | |
時代 | 室町時代中期 |
生誕 | 明徳元年/元中7年(1390年) |
死没 | 文安2年11月3日(1445年12月1日) |
改名 | 基教(初名) |
別名 | 後福照院 |
官位 | 従一位、摂政、関白、太政大臣 |
主君 | 称光天皇→後花園天皇 |
氏族 | 二条家 |
父母 |
父:二条師嗣、母:東坊城長綱の娘 養父:二条満基 |
兄弟 | 満基、持基 |
妻 | 石橋殿(石橋満博の姉妹) |
子 |
持通、尊応 養子:隆快 |
生涯
編集父は関白の二条師嗣で次男[1]。母は参議の東坊城長綱の娘[1]。初名は基教(もとのり)という[1]。応永17年(1410年)に兄の満基が急死したため、その養子となって家督を継いだ[1]。応永31年(1424年)、称光天皇の関白となる[1]。正長元年(1428年)に称光天皇が崩御し、後花園天皇が即位すると摂政に転じた[1]。永享5年(1433年)に関白となる[1]。官位は従一位太政大臣になった[1]。
書道や歌道にも優れ、京都郊外の岩倉の別邸で歌会を何度も催している[1]。『新続古今和歌集』には持基の詠歌が収められている[1]。
文安2年(1445年)11月3日に死去。享年56[1]。家督は子の持通が継いだ。
経歴
編集※ 日付=旧暦
- 応永16年(1409年)、正五位下左近衛少将
- 応永17年(1410年)、従四位下、正四位下備前権介権中納言、従三位
- 応永18年(1411年)、正三位権大納言
- 応永19年(1412年)、従二位
- 応永21年(1414年)、正二位
- 応永26年(1419年)、左近衛大将内大臣。翌年に両職とも辞職。
- 応永27年(1420年)、左大臣。応永32年(1425年)に辞職。
- 応永28年(1421年)、従一位
- 応永31年(1424年)、関白。正長元年(1428年)に辞職。
- 応永33年(1427年)、左大臣。永享元年(1429年)に辞職。
- 正長元年(1428年)、摂政。永享4年(1432年)に辞職。
- 永享4年(1432年)、摂政。太政大臣。翌年に辞職。
- 永享5年(1433年)、関白。死去まで。