丹波雅忠
平安時代中期から後期にかけての貴族・医師
丹波 雅忠(たんば の まさただ)は、平安時代中期から後期にかけての貴族・医師。医博士・丹波康頼の曽孫。名医と謳われた典薬頭・丹波忠明の長男。官位は正四位下・主税頭。
丹波雅忠(菊池容斎『前賢故実』) | |
時代 | 平安時代中期 - 後期 |
生誕 | 治安元年(1021年) |
死没 | 寛治2年2月18日(1088年3月13日) |
別名 | 日本扁鵲 |
官位 | 正四位下・主税頭 |
主君 | 後一条天皇→後朱雀天皇→後冷泉天皇→後三条天皇→白河天皇 |
氏族 | 丹波氏 |
父母 | 父:丹波忠明 |
子 |
重康 養子:忠康 |
経歴
編集医得業生から長元7年(1034年)に医道課試に及第し、長元8年(1035年)権医博士に任ぜられる。
後朱雀朝から後冷泉朝前期にかけて、医博士を務めながら、長元9年(1036年)近江掾、長暦4年(1040年)備後介、永承2年(1047年)丹波介と地方官も兼任した。永承7年(1052年)後冷泉天皇の病に対して薬による治療を行い、従四位下・侍医に叙任される。天喜5年(1057年)典薬頭・右衛門佐に補任。関白・藤原頼通の病を快癒させたことから、その推挙を受けて康平2年(1059年)施薬院使に任ぜられた。白河朝の承保4年(1077年)までに正四位下・主税頭に叙任されている。
医師としての名声は日本国外へも伝わり、日本扁鵲とも呼ばれたという。承暦4年(1080年)には高麗王・文宗が悪瘡を病んだことから、大宰府を通じて高麗に雅忠を招聘しようとしたが、高麗側の儀礼に不十分な点があることを理由として、朝廷は派遣を断っている(医師招請事件)。
著作
編集- 『医略抄』…曾祖父・康頼の『医心方』を抄録。
- 『医心方拾遺』
官歴
編集- 時期不詳:医得業生[1]
- 長元7年(1034年) 12月2日:医道課試及第[1]
- 長元8年(1035年) 日付不詳:権医博士
- 長元9年(1036年) 10月14日:兼近江掾[2]
- 長暦4年(1040年) 正月:兼備後介[3]
- 寛徳元年(1044年) 日付不詳:辞備後介(秩満)[3]
- 永承2年(1047年) 正月:兼丹波介[3]
- 永承6年(1051年) 日付不詳:辞丹波介(秩満)[3]
- 永承7年(1052年) 7月15日:従四位下[4]。日付不詳:侍医
- 天喜5年(1057年) 日付不詳:典薬頭[5]。日付不詳:右衛門佐
- 康平2年(1059年) 日付不詳:施薬院使
- 康平5年(1062年) 2月:兼丹波権守[6]
- 承保4年(1077年) 正月26日:見主税頭正四位下典薬頭侍医兼丹波権守[7]
- 永保2年(1082年) 日付不詳:兼丹波介[3]
- 応徳2年(1085年) 正月:兼丹波権守、主税頭侍医如元[3]
- 寛治2年(1088年) 2月18日:卒去(主税頭正四位下兼侍医丹波権守)[8]