丸山作楽
丸山 作楽(まるやま さくら、1840年10月27日(天保11年10月3日) - 1899年(明治32年)8月19日[1])は、明治時代の外交官・実業家・政治家。別名:正虎、正路、佐久良。号:神習処・素行・磐之屋。室の名は、宇米吉(奧津城)。
丸山作楽 まるやま さくら | |
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生年月日 | 1840年10月27日 |
出生地 | 日本 江戸・芝三田(現東京都港区) |
没年月日 | 1899年8月19日(58歳没) |
前職 | 外務大丞 |
所属政党 | 立憲帝政党 |
称号 |
従四位 大日本帝国憲法発布記念章 |
在任期間 | 1890年9月29日 - 1899年8月19日 |
在任期間 | 1890年6月12日 - 1890年10月20日 |
経歴
編集江戸・芝三田において、島原藩士・丸山正直の長男として生まれる。幕末期には平田派国学を学んで勤王派となり国事に奔走した。
1869年(明治2年)8月、外務大丞となり樺太に出張して対露交渉にあたった。翌1870年(明治3年)3月に帰国し、政府にロシア南下への積極対抗策を進言するが容れられなかった。また佐田白茅が唱えた征韓論に同調し、その実行を促したが、これも用いられなかった。同年11月、樺太問題の失敗により外務権大丞に転任となる。
丸山は篠山藩士・畑経世らとともに、外務省によって却下された征韓論を、反乱によって実行に移そうと試みる。しかし1871年(明治4年)に事は発覚してまず畑が逮捕され、5月10日に丸山も外務省出勤中に拘引された。5月29日、外務権大丞を免じられた。なおこの事件は「同権大丞(丸山)は固陋奇弁を有する人物を以て目せられ、今回の陰謀も朝鮮出兵を理由に、諸般及び浪士不平の徒を糾合した感があり、政治上重大化するに至らなかった」という[2]。終身禁錮の刑に処されたが、1880年(明治13年)1月、恩赦により出獄した。
出獄後、自由民権運動に対抗して忠愛社を結成し、新聞『明治日報』を発行する。1882年(明治15年)には東京日日新聞の福地源一郎とともに立憲帝政党を結成し、保守的政治家として活動した。
1890年(明治23年)6月12日、元老院議官に就任し、同年10月20日、元老院が廃止され非職となる[3]。同年9月29日、貴族院勅選議員に任じられ[3][4]、死去するまで在任した[1]。1899年(明治32年)、心臓弁膜炎のため死去[5]。
栄典
編集- 位階
- 勲章等
- 1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[7]
脚注
編集参考文献
編集関連項目
編集外部リンク
編集公職 | ||
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先代 神田孟恪 公議所副議長 |
集議院下局次官 1869年 (神田孟恪と共同) |
次代 阿野公誠 集議次官 |