三河吉野朝
三河吉野朝(みかわよしのちょう)は、南北朝時代に南朝第96代後醍醐天皇から後村上天皇、長慶天皇、後亀山天皇にいたる57年間の都が大和吉野朝のみでなく、三河国(愛知県東三河地方)にもあったとする説である。
新都建設を決定「興国」と改元
編集三河吉野朝の建都計画は、延元4年(1339年)8月16日、後醍醐天皇崩御後、義良親王が大和吉野朝で践祚すると、南朝の宮廷は、京都の武家方に対抗しうる新たな国都を建設するという決意を込め、翌延元5年(1340年)4月28日、「興国」と改元し、三州宝飯郡御津府(愛知県豊川市御津町)に新都建設を決した[1][2][3]。
三河吉野朝の新都を定めるに当たって、南朝宮廷(北畠親房)は、卜占の結果、熊野本宮と伊勢神宮との串呂線上に、⛩廟社神明宮(蒲郡市大塚町)、後醍醐天皇副陵・天皇山(蒲郡市相良町)を建立し、その串呂東方にある三州宝飯郡御津府(現・愛知県豊川市御津町御馬長床)に新都を建設することとした[2][4]。
新都建設の時期と場所
編集北畠親房が幼帝後村上天皇を補佐して、新宮殿建設中は三河多賀の里(蒲郡市相良町)を行宮とし、完成後は御津府御所(御津町御馬長床、御津町下佐脇御所)に居住した。この三河多賀の里行在中の興国3年(1342年)8月13日[5]に寛成親王が天皇山明澄院(現・豊川市御油町西沢の御油神社)で降誕し[6]、皇子降誕を記念して行宮近くに丹野(蒲郡市相良町)の地名が付けられた[7]。以上の経緯から新都建設は、どんなに遅くとも興国2年(1341年)の秋には開始されたとされる[8][9]。
三河吉野朝の遺蹟
編集三河吉野朝の新都が存在したと伝承される「愛知県豊川市御津町御馬長床」周辺には、「都」「都橋」「御所」「御所宮」「剣(つるぎ)」「加美(かがみ)」「玉袋」「玉袋橋」「御馬」「膳田」「天神」「神場」「楠木」などの地名が残っている[10][11]。これまで地元では「御津」「御所」「御所宮」等の地名は、持統上皇東三河御幸の聖蹟と言われてきたが、南朝史学会の藤原石山は、「御津」「御所」「御所宮」等の地名が持統上皇の聖蹟なら三種の神器の渡御を表わす「剣(つるぎ)」「加美(かがみ)」「玉袋」「玉袋橋」などの地名があるのは説明がつかない[12]と御津町の地名は三河吉野朝に因んだ地名だと考察している[13]。
長慶院法皇の仙洞御所
編集青木文献によると、長慶天皇は三河吉野朝の御所宮に在位後、覚理法皇となって望理原(もうりはら、愛知県豊川市国府町、小田渕町、森、御津町下佐脇周辺)に建設された錦門御堂(仙洞御所)に住み、この仙洞御所は東西450間、南北530間で、本殿の側に王田殿があり、その南に檜殿、北に長勝寺、西に高前寺、東に馬込殿があったと伝承されている[14][15]。また、「伊良湖岬常光寺調査資料」には、楠正儀が三河国望王里郷の行宮に、長慶天皇を奉衛した事蹟が記録されている[16]。
松良親王の春宮(玉川)御所
編集長慶天皇の皇子松良親王の春宮御所が愛知県豊橋市石巻本町和田地区に存在し、玉川、玉川小学校、御所、嵯峨(春興院)、若宮、広福、枇杷、出口、太夫橋、東家門、西家門、和田辻等の地名が残っている[17]。嵯峨(春興院)や若宮は、松良親王が長慶天皇の春宮(皇太子)であった事に由来する名前で、松良親王は玉川御所の春興殿(東宮殿)に住み、この附近を嵯峨御所(春興殿)と称しその近くには、長慶天皇や松良親王に近侍した青木和田尉盛勝の和田城があった[18]。
三河吉野朝の終焉
編集三河吉野朝の終焉は、最終的には明徳の和約が成立した元中9年/明徳3年10月27日(ユリウス暦1392年11月12日)ということになるが、実質的には天授5年(1379年)秋から天授6年(1380年)の春に掛けて行われた武家方の攻撃による[19]。
青木文献によると、天授5年(1379年)9月20日、長慶院法皇が崩御したと記録されている[20]。南朝史学会の藤原石山は、天授5年(1379年)の長慶院法皇崩御については、1385年(元中2年/至徳2年)9月「太上天皇寛成」の名で高野山丹生社に納めた宸筆願文が存在する事から、後醍醐天皇の皇女「懽子内親王」が身代わりになったと考察している。[21][22]
また、地元の伝承によると、山名氏清が甲斐の軍兵2800騎を率いて東三河に進撃して来たため、三河吉野朝の東の防塁であった和田城を拠点としていた青木和田尉盛勝が天授6年(1380年)1月6日に戦死した[23]。また翌天授6年(1380年)には、三河赤坂落合の合戦で楠正儀が戦死した。その時期は「稲の植え付け時」と伝承され、楠正勝の子孫・小久保家に伝承された楠正儀の位牌には「明徳院光全大士、天授6年5月9日、楠正儀、51才」と記録されている[24][25]。
脚注
編集- ^ “南朝正統皇位継承論6(串呂哲学研究ノート№194)|鈴木|note”. note(ノート). 2022年2月26日閲覧。
- ^ a b 山口保吉『芳花鶴水園の聖地』1943年、p.89
- ^ 山口保吉『三河吉野朝の研究』1940年、p.28
- ^ 山口保吉『三河吉野朝の研究』1940年、p.28~p.30
- ^ 山口保吉『三河吉野朝の研究』1940年、p.30は11月15日説を取る。
- ^ 中西久次郎・家田富貴男『長慶天皇御聖蹟と東三河の吉野朝臣』1940年、p.15~p.18
- ^ 山口保吉『三河吉野朝の研究』1940年、p.30、p.52
- ^ “南朝正統皇位継承論5(串呂哲学研究ノート№193)|鈴木|note”. note(ノート). 2022年2月26日閲覧。
- ^ 後村上天皇は、どんなに遅くとも、寛成親王降誕日・興国3年(1342年)8月13日の10ヶ月前には三河多賀の里(蒲郡市相良町)に行在中であったと思われる。
- ^ 山口保吉『三河吉野朝の研究』1940年、p.123
- ^ 「愛知県豊川市御津町御馬長床」の地図(マピオン)
- ^ 藤原石山『三河に於ける長慶天皇伝説考』南朝史学会、1979年、p.58
- ^ “南朝正統皇位継承論6(串呂哲学研究ノート№194)|鈴木|note”. note(ノート). 2022年2月26日閲覧。
- ^ “南朝正統皇位継承論7(串呂哲学研究ノート№195)|鈴木|note”. note(ノート). 2022年2月26日閲覧。
- ^ 中西久次郎・家田富貴男『長慶天皇御聖蹟と東三河の吉野朝臣』1940年、p.15、p.42
- ^ 八板千尋『大楠公秘史』1942年、p.143
- ^ “南朝正統皇位継承論5(串呂哲学研究ノート№193)|鈴木|note”. note(ノート). 2022年2月26日閲覧。
- ^ 藤原石山『三河に於ける長慶天皇伝説考』南朝史学会、1979年、p.64
- ^ 藤原石山『三河に於ける長慶天皇伝説考』南朝史学会、1979年、p.2
- ^ 中西久次郎・家田富貴男『長慶天皇御聖蹟と東三河の吉野朝臣』1940年、p.15
- ^ “南朝正統皇位継承論9(串呂哲学研究ノート№197)|鈴木|note”. note(ノート). 2022年2月26日閲覧。
- ^ 藤原石山『三河に於ける長慶天皇伝説考』南朝史学会、1979年、p.5
- ^ 三河青木城
- ^ “南朝正統皇位継承論9(串呂哲学研究ノート№197)|鈴木|note”. note(ノート). 2022年2月26日閲覧。
- ^ 中西久次郎・家田富貴男『長慶天皇御聖蹟と東三河の吉野朝臣』1940年、p.60
参考文献
編集- 中西久次郎・家田富貴男『長慶天皇御聖蹟と東三河の吉野朝臣』三河吉野朝聖蹟研究所、1940年
- 山口保吉『三河吉野朝の研究』山口究宗堂、1940年
- 八板千尋『大楠公秘史』東京閣、1942年
- 山口保吉『芳花鶴水園の聖地』山口究宗堂、1943年
- 豊川市『豊川市市勢要覧 昭和28年版』1953年、pp.152-153
- 藤原丸山『長慶天皇の傳説と木地屋民 : 尾三遠南朝史論』南朝史学会、1961年
- 藤原丸山『三河吉野朝玉川宮御遺蹟の研究』南朝史学会、1964年
- 藤原丸山『南朝正統皇位継承論』南朝史学会、1966年
- 三浦芳聖『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』神風串呂講究所、1970年
- 藤原石山『三河に於ける長慶天皇伝説考』南朝史学会、1979年
- 松井 勉『三河玉川御所と広福寺』中尾山広福寺、1979年