一宮村 (岡山県御津郡)
日本の岡山県御津郡にあった村
一宮村(いちのみやそん)は、岡山県御津郡にあった自治体である。1900年(明治33年)3月31日までは津高郡に属していた。
いちのみやそん 一宮村 | |
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廃止日 | 1955年1月1日 |
廃止理由 |
新設合併 一宮村、馬屋下村、平津村 → 一宮町 |
現在の自治体 | 岡山市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 中国地方(山陽地方) |
都道府県 | 岡山県 |
郡 | 御津郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
面積 | 6.8 km2 |
総人口 |
3,755人 (国勢調査、1950年) |
隣接自治体 | 岡山市、馬屋下村、平津村、吉備町、高松町、真金町 |
一宮村役場 | |
所在地 | 岡山県御津郡一宮村大字一宮 |
座標 | 北緯34度40分35秒 東経133度51分55秒 / 北緯34.6765度 東経133.8654度座標: 北緯34度40分35秒 東経133度51分55秒 / 北緯34.6765度 東経133.8654度 |
ウィキプロジェクト |
概要
編集現在は岡山市北区一宮地域南部の一宮・尾上・西辛川・辛川市場に当たる。
古くは春辺の里と言われ、吉備の中部に位置し吉備文化発祥の地であった。備前国津高郡馬屋郷に属したが、馬屋という郷名は辛川市場に津高駅が置かれたためその駅家(まや)に起因するとされる[2]。
江戸時代は岡山藩領となったが、藩主池田氏はこの地に馬市を開き、遠くは奥州からも参集するものがあり盛んであったと伝えられる[2]。
沿革
編集- 1875年(明治8年)12月27日 - 一ノ宮村と一ノ宮敷地村が合併して一ノ宮村となる[2]。
- 1883年(明治16年)2月15日 - 連合戸長役場制度発足により、津高郡第二部戸長役場を一ノ宮村に設置し、同村および尾上村・西辛川村・辛川市場村を管轄[2][3]。
- 1889年(明治22年)6月1日 - 町村制の施行により、第二部戸長役場管轄区域の4村が合併して村政施行し、一宮村が発足。旧村名を継承した4大字を編成し、役場を大字一宮に設置[4]。
- 1900年(明治33年)4月1日 - 津高郡と御野郡が合併し御津郡となる。
- 1955年(昭和30年)1月1日 - 馬屋下村・平津村と合併して一宮町が発足。同日一宮村廃止。
行政
編集歴代村長
編集代 | 氏名 | 就任年月日 | 退任年月日 | 備考 |
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初 | 黒住四郎 | 1889年(明治22年)7月23日 | 1890年(明治23年)3月25日 | |
2-5 | 浅野真尺 | 1890年(明治23年)4月8日 | 1902年(明治35年)8月31日 | |
6 | 浅野真尺 | 1903年(明治36年)5月20日 | 1907年(明治40年)5月19日 | |
7 | 浅野真尺 | 1907年(明治40年)5月24日 | 1911年(明治44年)5月23日 | |
8-11 | 浅野真尺 | 1912年(明治45年)5月13日 | 1927年(昭和2年)7月9日 | |
12-13 | 松田彦太 | 1927年(昭和2年)7月12日 | 1935年(昭和10年)7月11日 | |
14 | 藤原康雄 | 1935年(昭和10年)12月23日 | 1939年(昭和14年)12月22日 | |
15-16 | 三宅茂男 | 1940年(昭和15年)3月4日 | 1946年(昭和21年)10月16日 | |
17 | 蜂谷初四郎 | 1947年(昭和22年)4月5日 | 1951年(昭和26年)3月23日 | |
18 | 草野八治 | 1951年(昭和26年)4月23日 | 1954年(昭和29年)12月31日 | 後の2-4代一宮町長 |
参考文献 - [2] |
教育
編集主要施設
編集交通
編集出身者
編集脚注
編集- ^ 1/25000足守 大正14年修正・昭和3.5.30発行(今昔マップ on the web)
- ^ a b c d e f 岡山県市町村合併誌 市町村編363-372頁(岡山県、1960年)
- ^ 岡山県市町村合併誌 総編(岡山県、1960年)
- ^ 角川日本地名大辞典 岡山県「一宮村(近代)」