ヴァシレ・アレクサンドリ
ヴァシレ・アレクサンドリ(ルーマニア語:Vasile Alecsandri、1821年7月21日 - 1890年8月20日)は、モルダヴィア公国(現:ルーマニア)バカウ出身の詩人、劇作家、民俗学者、政治家、外交官。
ヴァシレ・アレクサンドリ | |
---|---|
誕生 |
1821年7月21日 モルダヴィア公国バカウ |
死没 |
1890年8月20日(69歳没) ルーマニア王国ヤシ |
職業 | 詩人、劇作家、民俗学者、政治家、外交官 |
国籍 | ルーマニア |
文学活動 | モルダヴィア革命 (1848年) |
署名 | |
ウィキポータル 文学 |
1852年から1853年にかけて『ルーマニア民謡集』を著してルーマニア民謡を西ヨーロッパに紹介、民族意識の高揚に貢献した[1][2]。また、ルーマニアアカデミーの創立に携わった。
生涯
編集1821年7月21日、モルダヴィア公国(現:ルーマニア)バカウに地主であった父ヴァシレ(Vasile Alecsandri)と母エレナ(Elena Cozoni)の元に生まれる。
1828年から1834年にかけてヤシにある寄宿学校で学び、その後はパリに留学。1834年に医学、化学、法律を学ぶもののフランス文学と啓蒙主義の影響を受けて文学を学び、帰国した。
1838年よりパリ留学にて学んだフランス語を活かしてエッセイを書き始める。
1848年、フランスの社会思想に影響を受けてモルダヴィア革命 (1848年)に参加。しかし失敗したため一時的にトランシルヴァニアやオーストリアに亡命する。
1852年に喜劇『田舎のキリツァ』を著してルーマニアの民族演劇を確立[1]。また、同年から1853年にかけてルーマニア民謡の集大成である『ルーマニア民謡集』を著した。
1859年、ルーマニア公国としてモルダヴィア公国が統一した際にはルーマニア公のアレクサンドル・ヨアン・クザより外交官に任命された。
その後はルーマニアアカデミーの創設に携わった。
1890年8月20日、癌のためヤシで亡くなる。
作品
編集- Chirița în Iași sau două fete ș-o neneacă (1850)
- Chirița în provinție (1855)
- Chirița în voiagiu (1865)
- Chirița în balon (1875)
- Pasteluri, 1868
- Poezii populare. Balade, 1852
- Poezii populare. Balade adunate și îndreptate de V. Alecsandri
- Doine și lăcrămioare, 1853
- Istoria unui galben
- Suvenire din Italia. Buchetiera de la Florența
- Iașii în 1844
- Un salon din Iași
- Românii și poezia lor
- O primblare la munți
- Borsec
- Balta-albă
- Călătorie în Africa
- Un episod din anul 1848
- Satire și alte poetice compuneri de prințul Antioh Cantemir
- Melodiile românești
- Prietenii românilor
- Lamartine
- Alecu Russo
- Dridri
- Din albumul unui bibliofil
- Vasile Porojan
- Margărita
- Introducere la scrisorile lui Ion Ghica către Vasile Alecsandri
- Cetatea Nemțului
- Lipitorile satelor
- Sgârcitul risipitor
- Despot Vodă, dramă istorică
- Fântâna Blanduziei
- Ovidiu
- Opere complete, 1875
脚注
編集参考文献
編集関連項目
編集外部リンク
編集- 『アレクサンドリ』 - コトバンク。
- 『ヴァシーレ アレクサンドリ』 - コトバンク。
- この記事にはアメリカ合衆国内で著作権が消滅した次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Alecsandri, Vasile". Encyclopædia Britannica (英語) (11th ed.). Cambridge University Press.