ヨハンナ・フランツィスカ・フォン・ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン
ヨハンナ・フランツィスカ・フィデリス・アントイネッテ・モニーカ・ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン(Johanna Franziska Fidelis Antoinette Monika von Hohenzollern-Sigmaringen, 1765年5月5日 - 1790年8月23日)は、ドイツの小諸侯ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン家の侯女。ザルム=キルブルク侯フリードリヒ3世の妻。
ヨハンナ・フランツィスカ・フォン・ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン Johanna Franziska von Hohenzollern-Sigmaringen | |
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称号 | ザルム=キルブルク侯夫人 |
出生 |
1765年5月5日 ジグマリンゲン |
死去 |
1790年8月23日(25歳没) キルン |
配偶者 | ザルム=キルブルク侯フリードリヒ3世 |
子女 |
フィリッピーネ・フリーデリケ・ヴィルヘルミーネ フリードリヒ・ハインリヒ・オットー フリードリヒ・エマヌエル・オットー フリードリヒ4世 |
家名 | ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン家 |
父親 | ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯カール・フリードリヒ |
母親 | ベルク=スへーレンベルク女伯ヨハンナ |
生涯
編集ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯カール・フリードリヒとその妻のベルク=スへーレンベルク女伯ヨハンナの間に生まれる。1781年11月29日、ストラスブールでザルム=キルブルク侯フリードリヒ3世と結婚。ヨハンナの兄アントン・アロイスとフリードリヒの妹アメリーとの結婚も同時に行われており、両家を結びつける二重の縁組であった[1]。
経済的な苦境にあったフリードリヒは、妻の莫大な持参金を得てザルム=キルブルク侯家の財政状況を立て直した。さらに1782年より妻の持参金を使ってパリに私邸オテル・ド・サルムを建造、侯爵夫妻はフランス大革命直前のパリでフランスの上流貴族たちとの交遊に勤しんだ。
1790年25歳の若さで死去、遺骸はキルン教会に埋葬された[2]。
子女
編集夫との間に4人の子があったが、成育したのは1人だけである。
- フィリッピーネ・フリーデリケ・ヴィルヘルミーネ(1783年 - 1786年)
- フリードリヒ・ハインリヒ・オットー(1785年 - 1786年)
- フリードリヒ・エマヌエル・オットー・ルートヴィヒ・フィリップ・コンラート(1786年)
- フリードリヒ・エルンスト・オットー・フィリップ・アントン・フルニベルト(1789年 - 1859年) - ザルム=キルブルク侯
参考文献
編集- E. G. Johler: Geschichte, Land- und Ortskunde der souverainen teutschen Fürstenthümer Hohenzollern Hechingen und Sigmaringen. Stettin'sche Buchhandlung, Ulm 1824, S. 70.
脚注
編集- ^ Fidelis Baur: Geschichte der hohenzollernschen Staaten Hechingen & Sigmaringen von den ältesten Zeiten bis auf unsere Tage, durchaus nach den Quellen bearbeitet. Heft 6. Bucher und Liener, Sigmaringen 1834, S. 57.
- ^ Gabriele Loges: Eine Prinzessin sorgt für den Erhalt der hohenzollerischen Fürstentümer. Geschichtsverein wandelt auf den Spuren von Amalie Zephyrine von Hohenzollern-Sigmaringen. In: Schwäbische Zeitung vom 15. Dezember 2010