マリヤ・パレオロギナ
マリヤ・パレオロギナ(ギリシャ語: Μαρία Παλαιολογίνα, ラテン文字転写: María Palaiologína, 1312年から1314年頃 - 1355年4月7日)は、セルビア王妃。セルビア語名はマリヤ・パレオログ(セルビア語: Марија Палеолог, ラテン文字転写: Marija Paleolog)。
マリヤ Марија | |
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セルビア王妃 | |
在位 | 1324年 - 1331年 |
出生 |
1312年から1314年頃 東ローマ帝国、コンスタンティノポリス |
死去 |
1355年4月7日 セルビア王国、スコピエ |
埋葬 | セルビア王国、スコピエ、聖デメトリオス教会 |
配偶者 | ステファン・ウロシュ3世 |
子女 |
シメオン・ウロシュ エレナ テオドラ |
家名 | パレオロゴス家 |
父親 | ヨハネス・パレオロゴス |
母親 | イリニ・メトキティッサ |
宗教 | キリスト教正教会 |
生涯
編集東ローマ帝国のパンヒペルセバストスであったヨハネス・パレオロゴスの娘[1]。アンドロニコス2世の治世にメガス・ロゴテテス(外務大臣)を務めたテオドロス・メトキティスの外孫で、皇帝ミカエル8世の曾孫にあたる。
妃のテオドラと1322年に死別していたセルビア王ステファン・ウロシュ3世と1324年に結婚した[1]。当時、父のヨハネスはテッサロニキの知事を務めており、マリアは幼少だった[2]。
1331年、ステファン・ウロシュ3世が前妃テオドラとの間の長男であるステファン・ウロシュ4世に廃された後に死去すると、マリヤは再従兄であった東ローマ皇帝アンドロニコス3世の後ろ盾を得て、自らの子であるシメオン・ウロシュ(ステファン・ウロシュ4世の異母弟)をセルビア王に擁立しようと目論んだが、果たせなかった。その後のマリヤとシメオン・ウロシュはステファン・ウロシュ4世から害されることはなく、1348年にシメオン・ウロシュがステファン・ウロシュ4世から南部イピロスの知事に任命される[3]と、マリヤは「マルタ」の修道名を名乗って修道院に入った。
出典
編集参考資料
編集- John Van Antwerp Fine (1994/04/01). The Late Medieval Balkans: A Critical Survey from the Late Twelfth Century to the Ottoman Conquest. University of Michigan Press. ISBN 978-0472082605
- Celia Hawkesworth (2000/01/01). Voices in the Shadows: Women and Verbal Art in Serbia and Bosnia. Central European University Press. ISBN 978-9639116627