ヘンリー・フィッツアラン=ハワード (第14代ノーフォーク公)
第14代ノーフォーク公爵ヘンリー・グランヴィル・フィッツアラン=ハワード(英: Henry Granville Fitzalan-Howard, 14th Duke of Norfolk、1815年11月7日 – 1860年11月25日)は、イギリスの政治家、貴族。
第14代ノーフォーク公爵 ヘンリー・フィッツアラン=ハワード Henry Fitzalan-Howard 14th Duke of Norfolk | |
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生年月日 | 1815年11月7日 |
没年月日 | 1860年11月25日(45歳没) |
所属政党 | ホイッグ党 |
称号 | 第14代ノーフォーク公爵 |
親族 |
第13代ノーフォーク公爵(父) 初代グロソップのハワード男爵(弟) 第15代ノーフォーク公爵(長男) 初代ダーウェントのフィッツアラン子爵(次男) |
在任期間 | 1856年2月18日 - 1860年11月25日 |
庶民院議員 | |
選挙区 |
アランデル選挙区 リムリック・シティ選挙区 |
在任期間 |
1837年7月24日 - 1851年8月1日 1851年8月1日 - 1852年7月7日[1] |
貴族院議員 | |
在任期間 | 1856年2月18日 - 1860年11月25日 |
経歴
編集1815年11月7日、後に第13代ノーフォーク公爵となるヘンリー・ハワードとその妻シャーロット(初代サザーランド公爵ジョージ・ルーソン=ゴアの娘)の間の長男として生まれる[3][2]。
家庭教育で育ったが、その後ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジへ入った[2]。大学を去った後、王立近衛騎馬連隊に入隊し、大尉まで昇進した[2]。
1837年の総選挙でアランデル選挙区から選出されて庶民院議員となる[1][2]。ホイッグ党議員フィッツアラン卿(Lord Fitzalan)として庶民院に入ったが、1851年にホイッグ党首相ジョン・ラッセルの主導で制定された反カトリック的な聖職者称号法に対しては反対の立場を取った。これは法案支持の立場を取った父に抵抗する形での反対だった[2]。
そのため聖職者称号法が可決されるとノーフォーク公爵家の影響力の強いアランデル選挙区の議席を辞し、代わってジョン・オコンネルの好意で譲られたリムリック・シティ選挙区から選出されて庶民院議員となった[2]。しかしその翌年の1852年7月には辞し、庶民院を離れた[2]。
1856年2月18日に父が死去したことにより第13代ノーフォーク公爵位を継承し、貴族院議員に列した[2]。ガーター勲章を贈るという内諭を受けたが、当時の首相である第3代パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプルの政策に反対して受章を拒否。この件で気骨のある人物として話題になった[4]。
栄典
編集1856年2月18日の父ヘンリー・ハワードの死により以下の爵位を継承した[5][6]。
- 第14代ノーフォーク公爵 (12th Duke of Norfolk)
- 第32代アランデル伯爵 (32nd Earl of Arundel)
- (1138年頃創設のイングランド貴族爵位)
- 第15代サリー伯爵 (15th Earl of Surrey)
- (1483年6月28日の勅許状によるイングランド貴族爵位)
- 第12代ノーフォーク伯爵 (12th Earl of Norfolk)
- 第22代マルトレイヴァース男爵 (22nd Baron Maltravers)
- 第12代フィッツアラン=クラン=オズワルデスタ男爵 (12th Baron FitzAlan, Clun and Oswaldestre)
- (1627年の議会法によるイングランド貴族爵位)
家族
編集1878年にオーガスタ・ライオンズ(海軍軍人初代ライオンズ男爵エドムンド・ライオンズの娘)と結婚し、彼女との間に以下の5子を儲ける[5]。
- 第1子(長女)ヴィクトリア嬢(1840-1870):ジェイムズ・ホープ・スコットと結婚。
- 第2子(長男)第15代ノーフォーク公爵ヘンリー(1847-1917)
- 第3子(次女)フィリッパ嬢(1852-1946):サー・エドワード・ステュワートと結婚。
- 第4子(次男)初代ダーウェントのフィッツアラン子爵エドムンド・フィッツアラン=ハワード(1855-1947)
- 第5子(三女)アン嬢(1857-1931):陸軍軍人ラルフ・カー(第7代ロジアン侯爵ジョン・カーの息子)と結婚。
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ a b UK Parliament. “Lord Fitzalan” (英語). HANSARD 1803–2005. 2014年11月17日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j DNB
- ^ Lundy, Darryl. “Henry Charles Howard, 13th Duke of Norfolk” (英語). thepeerage.com. 2014年11月16日閲覧。
- ^ a b 森(1987) p.49
- ^ a b Lundy, Darryl. “Henry Granville Fitzalan-Howard, 14th Duke of Norfolk” (英語). thepeerage.com. 2014年11月16日閲覧。
- ^ Heraldic Media Limited. “Norfolk, Duke of (E, 1483)” (英語). Cracroft's Peerage The Complete Guide to the British Peerage & Baronetage. 2011年8月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年7月1日閲覧。
参考文献
編集- 森護『英国の貴族 遅れてきた公爵』大修館書店、1987年。ISBN 978-4469240979。
- Lee, Sidney, ed. (1891). . Dictionary of National Biography (英語). Vol. 28. London: Smith, Elder & Co.
外部リンク
編集- Hansard 1803–2005: contributions in Parliament by Henry Fitzalan-Howard
グレートブリテンおよびアイルランド連合王国議会 | ||
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先代 ダドリー・クーツ・ステュアート卿 |
アランデル選挙区選出庶民院議員 1837年 - 1851年 |
次代 エドワード・ストラット |
先代 ジョン・オコンネル |
リムリック・シティ選挙区選出庶民院議員 1851年 - 1852年 |
次代 フランシス・ウィリアム・ラッセル |
公職 | ||
先代 第13代ノーフォーク公爵 |
軍務伯 1856年 - 1860年 |
次代 第15代ノーフォーク公爵 |
イングランドの爵位 | ||
先代 ヘンリー・ハワード |
第14代ノーフォーク公爵 1856年 - 1860年 |
次代 ヘンリー・フィッツアラン=ハワード |